科学と疑似科学の間が単純な基準で白黒にわけられるという期待は捨てた方がよい。
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この本で扱われている疑似科学とは、創造科学や占星術、超能力、代替医療などです。科学者の端くれとして、科学と疑似科学の区別なんて簡単なことだろうと思って読み進めます。
枚挙的帰納法、仮説演繹法、反証主義(仮説自体の反証可能性)、方法論的反証主義(反証された仮説に固執しないこと)、最小決定の問題、観察の理論負荷性、通約不可能性など、疑似科学と科学を区別できそうな基準が一つずつ提示され、その都度否定されていく様は、推理小説を読むようでスリリングです。
著者の結論は「科学と疑似科学は区別できる,しかしそれは線引きという形の区別ではない」というものです。一つの基準で見ると、疑似科学の立場からもっともらしい反論ができるが、複数の基準に照らし合わせてみると、総合的な評価として、正統科学と疑似科学は区別できるだろうということです。
科学の基本である再現性について、「実験の再現には言葉で書き切れない実験のノウハウが必要なので、公刊された論文の記述だけ見て実験が再現できると思ったら大間違いである」ことをもって、正統科学でも再現性が求められていないかのような記述が見られます。また、社会科学や行動科学を「科学」の側に組み入れようとするために、科学と疑似科学の区別を困難にしているとの印象を受けます。自然科学者の目から見ると、社会科学という用語そのものに違和感を覚えてしまいます。わざわざ「科学」をつけなくても、学問として成立するはずです。やはり、「再現性」と「予見可能性」が科学と疑似科学を分ける基準として最も重要なものであると考えます。もっとも、ケプラーは占星術、ニュートンは錬金術の実践家であったという事実を見ると、科学と疑似科学の微妙な関係は、これからも続くのだろうと思います。ライナス・ポーリングがビタミンCに固執したように。
個人としては、科学と疑似科学を複数の指標で区別し、判断するしかないのでしょう。また、疑似科学に特有の表現方法を理解しておくことは、間違って信じてしまわないために必要だと思います。具体的には、
・返答した科学者の多くが、創造科学論者の側からきちんとしたリアクションがなく、しかも同じ批判を繰り返しつづけることについて不満をもらしている。(p.22)
・(疑似科学から見て)不利な証拠をどうしているのだろうか?細かくみればいろいろあるが、基本的には「無視」しているようである。(中略)30年くらい前と同じ主張が、難点についての断りも注釈もなしに堂々とそのまま述べられている。(p.49)
つまり、正統科学からの反論を無視して、同じ主張を繰り返しているのは、疑似科学の特徴なのです。その点で、著者の考え方とMephistoWalkerの考え方は極めて近いのですが、科学哲学の学者として、著者はより誠実に科学と疑似科学の区別を取り扱っていると言えるのだと思います。
親の形質が3:1の比率で孫に継承されることを実験(観察)によって確かめたのがメンデルの法則ですが、メンデルの出した実験結果を「検定」の方法で調べると、統計的には極めて低い頻度でしか起こりえないくらいきれいな数字になっているというのを、この本で始めて知りました。予備実験で3:1になることを知っていて、「3:1に近い数値になってきたところでメンデルは数えるのをやめた」というのがもっともありそうな説明のようです。そんなことも明らかにしてしまう正統科学の素晴らしさを改めて実感しました。
科学哲学は「生きた」学問だった。
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本書は大学での講義をもとにしているそうですが、実際にも科学哲学の基礎的な知識を疑似科学との関連のなかで順序良く紹介しています。本書の特徴は現実の世界で生き続ける『疑似科学』との関わりを通して科学哲学を「生きた」学問としているところです。
1章では、最初に進化論とこれを否定する創造科学(人間は類人猿から進化したのではなく神が創ったとする考え)の議論で、反証主義などの基礎概念を説明します。創造説は現在でも欧米で少なくない支持を受けていて、学校の教科書にも出たりして訴訟にもなるという現実の問題があります。リチャード・ドーキンスは創造論者とのあくなきを戦い続けています。この分野では進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)がお勧めです。
2章では天動説、占星術から地動説への変遷を論じるなかで、パラダイム論の説明があります。星占いは現在でも強い人気があり、信じている人も少なくないのでは。
3章では超心理学(超能力)との関係で科学的実在論を論じています。超能力の研究は実際にはかなり科学的なものでバカにはできません。テレビに人気霊能力者が出てきてスバスバと知らないはずのことを言い当てるのを見ていると、どこか信じたくなります。誰だって1度や2度は不思議な体験をしたことがあるはずです。
ここまでの議論からは、創造説、天動説、占星術、超能力などの元々正当な科学からは批判の対象にもならなかったものに、科学哲学が用心棒的な役割をしてきたにすぎず、実在論の話では科学哲学が科学者からは疎まれているような感じもします。
4章は代替医療を論じています。代替医療とはカイロプラクティック、ヨーガ、アロマテラピー、鍼灸などの近代西洋医学の枠に収まらないもの全般を言います。例えば鍼灸は、五臓六腑や気の流れなど現代医学の知見と相反する部分が多く、経脈や経絡といった現代医学では確認できないものの存在を前提とします。このほかに、ホメオパシー、プラシーボ効果などについて論じています。ファイヤーアベントがこの章に出てきます。ルイセンコ事件や水俣病事件にも触れています。
5章では、信じやすさの心理学から確率・統計思考へと議論が進みます。偶然では説明できない、と思えるようなことも確率論的にはそうでもなかったりするのですね。ベイズについてはこの章で言及されています。
終章では、科学と疑似科学の線引き問題についてまとめています。全体として、よくまとまった構成になっていて科学哲学の入門書であると同時に面白い本であることは間違いないです。
「程度」問題への適切な判定
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お奨めポイントがありすぎて、どこから手をつけて良いものやら困惑中。
創造論(と進化論)、占星術(と天文学)、超心理学、代替医療を取り上げて、いわゆる疑似科学
と正統な科学との“線引き問題”を考察しています。
そうした考察を通じて、概略ながら科学哲学上で論じられてきたいろんな立場を効率よくレビューする
ことができます。科学哲学のわかりやすい入門として好適。同時に、本書の構成上、題材的な扱い
であるはずの「科学という営み」についての格好の入門にもなっています。
特筆すべきは、第4章の後半から第5章にかけて。
厳密な証拠が得られなくとも社会政策上のアクションを起こさなきゃいけない場面は
あって、そんなときの指針はないのかって流れから、統計的検定法へ向かいます。例の
「5%水準で有意」とかいうやつ。あの第一種の誤謬とか無帰仮説とかのやつ。
そもそも、あれが“何をしているのか”、“なんでそんなことしなきゃいけないのか”ってことを、ここまで平
易な文字列に落とし込んだものは空前だったのではないか。
しかも、「有意」な結果が出たからといって、それが当初想定していた相関を検出しているとは限らない
との指摘など、世の多くの統計関連の参考書・一般書を読み進める前に、是非とも本書を読むべき
でしたよ。超納得中。
かつ、ベイズ主義の特徴を数式抜きで解説したモノとしては、小島寛之氏の『確率的発想法』と
ならぶ双璧ではないかと。
そして、明確に白黒つけられなくとも、いろんな基準を動員することによって、そこそこ機能するだけの
判別がつけられることなど、なんだか感嘆しっぱなし。
お奨めポイントがありすぎて、とにかく心からお奨めです。
高校くらいで、総合学習的な科目の教科書に採用されてもOKなんじゃないかしら。
蛇足的ながら、哲学を論理学、認識論、形而上学(存在論)、価値論(倫理学)に別けるのは、
意外と便利であることに何かと気づき中。
すばらしいね
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科学者がいわゆる疑似科学を批判するとき、はじめからそれがエセであると決め付けて嘲笑するケースが多く、公平さを欠いていると感じることが多い。だが、科学哲学者たる著者はそうした態度を決してとらず、時には非常に遠回りをしながら、科学と擬似科学を分けるものを徹底的に問い詰めていく。題材として、創造科学(聖書記述を事実とし進化論を否定する立場)、占星術、超能力、代替医療などを取り上げているが、著者は飛躍的なきめ付けを一切行っておらず、極めて丁寧にそれらを仔細検討している(「この議論のまますすむと、もしかしたら疑似科学も科学の範疇なのか?」と読者をしばしドキドキ(ワクワク?)させるようなところさえある)。著者の態度には、疑似科学への闇雲な批判者が見習うべき誠実さがある(文は時々おちゃらけているがご愛嬌)。
最終的に、疑似科学と科学を截然とわける線はないが、線はなくとも、複数の判定基準による総合評価で、両者はやはり区別はできるというのが著者の立場。なお、疑似科学であっても、科学並の緻密さや環境で研究されているものがあるそうだ。例えば超心理学(ESPなど)は米国では極めて公式に研究されているらしい。いまのところ結果に再現性がなく科学とはいえなくても、研究して無駄な分野ではないような気もする。ファイヤアーベントではないが、現在非合理とされるものでも、それを研究した結果、何か今の枠にはまらない新たな知見が得られるかもしれないのだから。
著者は本書を科学哲学の入門書だとも言っているが、少しも予備知識がないと読むのは大変だろう。他の薄いのを一冊読んでから読まれることをお勧めする。内容が濃い良書なので、挫折するのはもったいない。
これは、巧妙な政治的著書である。
★☆☆☆☆
科学を難しくしようとするとそれは「無限」に難しいだろう。戸田山を読み、高橋昌一郎を理解した上で、高橋本を批判する者の言い分によってこの本を購読したのだが、笑ってしまった。これだけのページボリュームがありながら、「論理学の初歩的説明をすることが、荷が重い」と著者が言うのだが、科学として認めるかどうかの最低ラインは、論理矛盾があるのかどうかである。進化論と反進化論の対立構造を、科学と非科学にすり替えて説明していくのが、この本の根幹なのであるが、進化論の論理学的厳密性などには全く触れない。そういう意味で科学書と言うよりも、政治的プロパガンダと呼んで好い。この手法は昔よくユダヤ系共産主義者が使った手法で、レトリックのすり替え法、と呼ばれる非常に洗脳には有効でしかも強力だ。
非科学の攻撃する学界とそこの科学者たちの弁明の書であるが、彼らの主張する理論の正当性や蓋然性が高まるわけではない。そこのところを良く踏まえて欲しい。人としての品性の問題すら私の中で芽生える。ゲーデル、ハイゼンベルクを理解した上でなお、人としてやれることはやはり科学しかないのだ。しかし科学の論理厳密性のハードルを下げることには断固反対する。量子論は論理厳密性はなくとも実利的に有効であることは証明できた。進化生物学は、論理性、実利的有効性のどちらもない事を反省すべきだ。池田の構造主義進化論も、笑えるのは、今までの進化の各論を徹底的にこきおろしながら、進化論そのものに懐疑を持たないことだ。なぜだ?論理学をかじってもなお、進化論を客観視することができないからこそ、別分野から、「科学信仰」などと揶揄されるのだ。そもそも構造主義はものの見方を変えたり、修正することはしたが、基本的に何も言っていないんだよ、哲学的には。むしろ文明の進化を否定したのだ。
ま、人は何かを頼りにしなければ生きていけない存在である事の証明なんだが、特に日本では反進化論者は皆無だ、明治時代から。進化論、罪が重い。無神論も論理的証明なんかもちろんされていない。もう神は必要ない、と言った人がいただけだ。神の存在証明の無意味なことは、ゲーデルが証明した、と言うことになると思うんだが、数学的に。