著者は片っ端からだめ出しをしていく。信念がなんらかの正当性の根拠によって知識に格上げされねばならないという固定観念を批判する。
信念を基礎づけによって正当化することを放棄することは,自然科学を哲学的認識論で根拠づけることの放棄となる。むしろ認識論は自然科学の一部として,われわれが実際にどのように信念に達しているか,脳科学,認知科学,生物学,心理学の成果を活用して,考えるべきである。この現実を認めず,伝統的認識論に固執するのは,怠け者の哲学者である。
ところで,そもそも「真理」や「信念」とは認識論にとって大切なものか。もし真なる信念の形成が生物の生存にとって最適な戦略ではないなら(そしてないらしい),認識論の前提自体があやしい。真理や信念に関わる必要はない
のではないか。ということは,「心」なんて問題ではない。
そこで,新しいこれからの認識論は,真理や信念を問題とせず,プラグマティックに,しかも自然科学の一部として学際的になされるべきである。
認識論の伝統からの脱却は,心からの脱却らしい。唯物論者や人間機械論者にとってはそれでもよいだろうけれど,なんか悲しいお話だった。
この著者のプロジェクトとは、ズバリ「認識論を壊す」こと。つまり本書は、認識論の教科書のくせに(?!)伝統的な認識論をボコボコにするという、不届千万かつ痛快無比な本なんです。が、やはりそれだけでは建設的じゃありません。著者はちゃんと、認識論を新たに作り直すという試みにまで踏み込んでいます。むしろ、実はそれこそが最終的に目指されていることなんです。著者は知識に関する伝統的な問い方をいわば逆転させた上で、まず第一に認識論の自然化を、その上さらに社会化をも目指すことを提案します。そうした知識観に基づく「新たな認識論」は、もはや狭い意味での「哲学」にとどまらない学際的な様相を呈してきて圧巻です。
最後に、教育的配慮が十分に行き届いている本書は、認識論のみならず哲学という分野全般における今後のあり方に対しても具体的な問題と示唆とを提起するという建設的な面をも持ち合わせている点で、実に斬新な「教科書」だと言えると思います。