で,結論は,
「意識や感情やクオリアが果たす機能」は「物理的なシステムで多重に実現できる」.「半導体や電線やプラスチックやレンズなどの工学的な素材」で.
~~それからもう一つ,
「心があるようにしか見えないロボット」は「心があるロボット」.
....え?こんだけ?というのが正直な感想でした.
結局,ロボットに心を実装するための具体的なアイディアについては何も書かれていませんが,哲学からロボット学へのアプローチ,として読むと面白いかも.~
たしかにこの本は、「ロボットは心を持てるか」という問に対し、「持てる」という立場に立って議論を突き詰める内容になっている。ただし注意すべきは、結論は保留されているという点。というのも、巻頭からさまざまに切り口を変えながら、「ロボットは心を持てる」という判断を支持する結論を導き、重ねながらも、巻末近くで扱われる「感情」や「道徳」の問題までたどり着いた時点で、最終結論は留保される。
結局、人間の心の成り立ちが分からない以上、ロボットがそれを持てるかどうかの議論も立ち止まるしかないという、当たり前といえば当たり前の結末。つまりこの本は、裏側からの人間論だったわけだ。
ちなみに、著者は文中各所で自分自身に突っ込みを入れている。何かを主張した直後にカッコ書きでそれを相対化するような記述や合図が、多いときは1ページに2~3か所も出てくる。あるいは、そもそも哲学している自分自身に憐憫または嘲笑を投げかけるような記述も頻出する。日ごろ周囲からよほどイタイ視線(「あの先生もいい年をして、何て地に足のつかない話をしてるの?」)を浴びているのかと同情したくもなるが、しかしその一方、おかげで文脈が錯綜して話を不必要に混乱させている気味もあり、ちょっと哲学者としての覚悟とプライドが不足してるゾッ! と発破をかけたくもなった。哲学者の人生も大変そうだ。
分かりやすく、面白い本だと思うけれど、各章冒頭に置かれた「7つの哲学物語」の出来栄えについては、評価を差し控えたい。
注意すべきは、「ロボットに心が持てるか」という問いは、それだけでは不毛になる危険があるということである。というのは、心という概念は明確な輪郭がないからである。例えば犬や猫の場合、思考や悲しみは認めにくいが、喜びや恐れは認められる。要するに犬猫相応の心を持つ。「心とは人間の心である」と定義しそれに固執するなら別だが、そうでなければロボットも同様に、ロボットの多様性に応じた様々な「心の変種」を持つことが予想できる。著者はチューリングテストの章で「機械が心を持つには、環境との関わり方において人間と似た身体が必要」と主張しているが、仮に人間と区別できない会話をこなす機械が本当に出現したらどうか。身体がなければ、確かに「ビールのうまさについて」とか苦手な話題はあるだろうが、例えば著者と対等に議論ができるなら、人間とは違うにしてもそれなりの心を認めざるをえないだろう。「心を持つ」とは、実質的には、悲しむ・信じる・考える・意識する・発言に意味をこめる等のこころ系述語が適用可能ということだが、心系述語の多様性と広がりに応じて「心」という概念は柔軟な概念なのである。このこと自体は詰まらない指摘だが、心に関する問題を変にこじらさないためのポイントである。
このような概念的検討については、本書では7章の「人格」概念の分析がいい(4ページだけで、本書全体からは注釈的な扱いだが)。結局の所、多くの人が「ロボットが心を持つ」ことに抵抗感を持つ原因は既存の人格概念にあるので、むしろこちらが本筋だったかもしれない。