まずはじめに、あなたが「バフィー」シリーズを後半になってから観始まったとしても恥じることはない。たとえ、愛嬌のあるサラ・ミシェル・ゲラーが吸血鬼(バフィーの用語で言うと、バンプだが)や悪魔、その他の邪悪な者を打ちのめすところを観てはじめのうちは鼻であしらっていたとしても、である。たぶんあなたはそうだったと思う、なぜならこのドラマは、ラテックス製の怪物が登場するSF番組のようだからだ。シーズン3から観始めるといい、そうすればどんな人も何かしら感銘を受けるだろう。すぐにこのドラマの魅力に圧倒され、このドラマのきめの細かさ、わくわくする面白さに感動することだろう。
ではなぜシーズン3なのか? それは純粋無垢ではなくなった登場人物たちを演じるすばらしいキャストが出てくるからだ。彼らの心は傷つき、自尊心は敵意に満ちたありがちな高校生活で踏みにじられ、その結果、過ちを犯しやすい自分自身に気づき始める。努力すればするほど、ひっきりなしに多くの怪物や、前に出てきたのよりも邪悪な者たちが出てくる。だがそれにもかかわらず、というか、だからこそ中心メンバーは団結していられるのだ。市庁舎の下水トンネルへの図面をダウンロードして、安全に行く道を地図に書いて土壇場で勝利することを夢見ている、頭のいい女の子ウィロー(アリソン・ハニンガン)がいる。うまく行かない者たちもいる。バフィーと衝突しつつバフィーを愛している吸血鬼のスパイク(ジェームス・マスターズ)、バフィーと互いを苦しめあうエンジェル(デビッド・ボレアナズ)、かわいくて人気者だが心は空っぽのコーデリア(カリスマ・カーペンター)、平凡な十代の男の子ザンダー(ニコラス・ブレンドン)らだ。
さてバフィー自身だが、全7シーズンを通して、ミニドレスを着た皮肉な十代の女の子から、「普通の」女の子になりたいという変わらぬ願いが、悲劇的な欠点である主人公へと変身を遂げる。ささいなことだが、このボックスセットでバフィーのファッションの変化も観ることができる。モールをうろつく女の子から、うらやましいほどのハイライトを浴びて「プラダ」を着こなすキックボクシングの女神へと変わる(似合わないボブカットもシーズン2にはあるが、大目に見よう)。そして少なくとも筋書きは変身ぶりに合っている。いつでもバフィーは髪を切って人間関係を終わらせ、痛みと自分の弱さの両方を振り払うのだ。
十代の若者の心象風景をうまく書いたということに加えて、シーズン4から6まで進むにつれて、もっと普遍的なテーマ――権力、政治、死、倫理といったテーマがたくみに取り入れられていく。あまりうまく熟成していないいくつかの失敗作(シーズン1の「私はロボット、あなたはジェーン」が思い出される)は別として、ほとんどのエピソードは最初に観たときよりも悲しく、深みを持って描かれているように感じられる。これこそどんなエンターテインメントにも必要な要素だ。観客の平凡な世界からの逃避を提供し、主人公(革のパンツをはいた理想的な女の子)が、どの観客のトラブルよりも、深刻な存在である悪魔を打ちのめすという世界にいざなってくれるのである。(Megan Halverson, Amazon.com)