カウンターで話そうか
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「共に視る」。北山修は、論文はともかく、一般書籍に自分の患者のケースをあげることを嫌い、古事記、浮世絵などから日本人の心を探る、という斬新な研究方法を試みた。この本では編者であるが、だからこそ、たくさんの「共に視る」論が読めることは大変ありがたいことである。
母と子は初め、母乳やミルクをもらうときみつめあっている。やがて、二人で「共に」きれいなお花やワンちゃんや猫ちゃんを「視て」「かわいいねー」などと情緒的につながりつつ、共視する。普通に育てられた幼児は、母と永遠に一緒にいるものだと思っている。何があってもべったりくっついて生きてゆくのだと、生きてゆくという意味も知らず、感じている。
しかし、別れの日は来る。自立である。母の手を、母の心を借りなくても世界を一人で視ることが出来るようになる。そして本当の自立で、母を愛しつつ別れてゆく。別居に限らない。同居していても「別々の人間」として歩み出す。
北山修は後年、1971年に書いた「あの素晴しい愛をもう一度」の詞に、書いた当時は気づかなかった共視論を見いだす。この唄の中で「ふたり」は決して見つめ合わない。同じものを共に視ている。そしていつまでもと誓い合ったのに、心と心が通わなくなる。それは嫌いになったのではなく、別々の人間になったのである。
まさに母子である。
「いなくなるから取り入れられる」。母は子とべったりの季節を過ぎて、初めて子供の心の中に定住する。頻繁に起きる悲しい母子の事件は、その母の母、さらにその母と子がどんな心一つの時期を過ごしたのか、過ごせなかったのか、きちんと調べなければ同じことが繰り返されるであろう。
テーブルを挟んで話すと緊張するが、カウンターに並んで話すとほぐれて話しやすい、という経験はないだろうか。これも「共視」である。大切な話をしたいときは、テーブルではなく、カウンターで話してみてはどうだろう。二人共に同じ方向を視ながら。
この本は、精神科医、日本人を看る医師・北山修入門に最も適した本のうちの一冊である。