なんとも不思議な「原爆小説」
★★★★☆
■<原爆>という題材を通して、戦後60年を経た今の時代の痛みに迫ろうとする短編集。
原爆小説といっても、原爆の悲惨さが直接描かれているわけではありません。
まるでサブリミナル効果のように、
あの忌まわしい原子雲による悲惨な光景が、時折読み手の意識の中に甦ってきます。
もちろんかく言う私も戦後生まれ。実際に原子爆弾も、戦争も知らない世代の一人ですが・・・。
■「イワガミ」のある場面で、
「どうして広島を書こうと思ったのですか」と問われて女性作家が立ちすくむところがありますが、
まさしく著者自身の正直な気持ちを表しているのでしょうか。
また原爆で家族全員を亡くした人のこんな言葉が心に強く残りました。
「もし自分が原爆を作れたら、
それを背負ってアメリカに行って自爆テロしたいくらいですよ。
広島に原爆を落とした奴らに、私の家族と同じ目に遭わせてやりたい。
・・・でもしません。」
「なぜ人間は核を作るのですか?
権力のため? いや好奇心のためです。
なぜ人間は核を使うのですか?
利益のため? いや平和のためです。」
とにかく戦後60年を経つつも、
9・11世界同時テロが起きてしまった“今”という時代状況を考えさせられる
なんとも不思議な「原爆小説」です。
その痛みに触れてみたかった
★★★★★
田口ランディさんの本『被爆のマリア』は次の4つのフィクションで構成されている。「永遠の火」は結婚式のキャンドルサービスに“原爆の火”を使うよう父親から勧められる娘の葛藤。「時の川」は被爆体験の語り部に「(あなたは)選ばれた強い人だ」と言う少年。「イワガミ」は広島の取材をしていた作家が出会う鎮魂の物語。そして表題作「被爆のマリア」は長崎で被爆したマリア像を心の支えにするAC(アダルト・チルドレン)の若い女性の話。一見平和な今の日本だが、家庭にも学校にも安全で心やすらぐ場所はなく、精神的な痛みに耐えながら必死で生きているーそんな若者たちが主人公だったりする。わたし自身も被爆体験の話を聞いたり、映像や写真を見たりしてきたけれど、「イワガミ」に登場する作家のように「どうにも踏み越えられない壁のようなもの」をいつも感じてきた。それは原爆の凄惨さが、戦後生まれのわたしの想像力を圧倒的に凌ぐレベルに違いないから。自分が体験していないものは、どうあがいたって分かるはずもない。小説家はそんな無力感を抱きつつも、現代社会という生体に原爆を照射してみせた。多くの人に触れてほしい作品である。
田口ランディの新境地
★★★★☆
原爆による惨状を記した書籍は多いが、それらとは異なり原爆から僅かに距離を置いたポジションから田口ランディはヒロシマにアプローチしている。声高に反核を唱えるのではなく、登場人物の思いや広島の歴史といった間接的・断片的な部分から原爆の意味を語ろうしているのだ。天地自然や人との交わりの中からエネルギーを得て創作活動をしてきた田口ランディにとって、それらを根こそぎ破壊した原爆というものを、著者は改めて自らに問い直しているのではないか。
逃げちゃったな・・・
★★☆☆☆
平和を訴える人も、平和を無視することも出来ないけど、
この本に収められている4作品に出てくる人たちのヒロシマへのこだわりは
ヒロシマにこだわりたい田口ランディに重なる。
作家としてスランプの時期に、大き過ぎるテーマヒロシマへ逃げた感が否めない。
『富士山』で新境地を開拓した著者に期待してただけに、口惜しい。
日本人の根っこを探すシリーズ
★★★★★
「富士山」に連なる短編集ととらえていいだろう。日本人にとって、決して無視できないものの一つ「原爆」。でも何となく距離を置いて目をそむけているもの。今、原爆を自分たち自身に問い直すこと。実にいいセンスだと思う。原爆は、被爆者以外にとって書くことがタブーに近い。おそらく生真面目なスタンスからの批判があるだろう。
時流からは突拍子もないかもしれない。文学の流行をはずしているかもしれない。だが、日本人のアイデンティティーを探すうち、「原爆」に思い至った田口ランディは、いいセンスをしている。
しかも、原爆そのものから微妙にずれる問題意識のあり方が、リアルだ。声高に悲惨さを訴えることに対する違和感も、非常に生々しく書かれている。
「イワガミ」の、被爆以前の美しい広島までさかのぼって理解しようという提案は、しみじみと美しい提案である。
逆に「被爆のマリア」は、圧倒的な暴力にさらされた象徴として、大浦天主堂のマリア像に、今までと全く違うアプローチをしている。悲しみの底を、ひっそりと描いて美しい。