断片的なテキストの豊穣さ
★★★★★
訳者のあとがきで須賀氏が書かれているように、これはタブッキの作品の特徴である断片性、暗示性、象徴性が極限にまで推し進められた小説である。全体が手紙、エッセイ、捕鯨行の記録、伝記、短編、あとがき(ここではあとがきも作品の一部なのだ)などの異質なテクストの寄せ集めになっており、表面的にはそれらのテクスト間に関連性はない。ただ、クジラや船やアソーレス諸島にまつわるテクストというだけである。全体を読むと一つのストーリーが浮かび上がるのかと思って読むとそんなこともない。その代わり、この小説を(あとがき、補注まで)読み終えると海、クジラ、捕鯨手などにまつわる幻想がどこまでも広がっていき、ただ一つのストーリーでは表現不可能なより普遍的なイメージの広がりが得られるようになっている。タブッキの企みはしたたかさだ。それぞれのテキストの異質さと断片性を際立たせることによって、ストーリーの枠にとらわれない豊穣さを獲得することに成功している。このような「仕掛け」に意識的なタブッキの作品はいつもメタフィクショナルで、それがまた彼の魅力となっている。当然のことながらそれぞれの断片的テキストはそれだけでも魅力的で、「その他の断片」「沖合」でエッセイ風に物語られる様々な海とクジラのエピソードは一つ一つが宝石のようだし、アンテール・デ・ケンタルの生涯の物語は一個の散文詩のようだ。最後の「ピム港の女」の美しさは間違いなく読者を金縛りにする。いつもの遊び心も健在で、「あとがき」はクジラが書いたことになっているし、補遺にはナスカの地上絵絵図のような良く分らない「地図」が澄まして収まっている。この断片性のおかげで、ふと時間が空いた時に手に取り適当なページを開いて読むというずぼらな読書法にもこの作品は適している。読むたびに奥行きを増し、色合いを変える素晴らしい作品です。