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辺境から眺める―アイヌが経験する近代

価格: ¥3,240
カテゴリ: 単行本
ブランド: みすず書房
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近代国民国家に包摂されるとはどういうことなのか ★★★★★
アイヌを始めとする幾多の自立した小社会が、日本やロシアといった国民国家という大社会に組み込まれていく時何が起こったのか?本書は、アイヌ等様々な先住民族の経験に光を当てつつ、従来の「近代史」がいかに「首都から見た歴史」であったか?辺境から眺めるとき「近代」とは何だったのか?といった問いに答えるものである。

圧巻なのはやはり一章二章。私たちは内地を高度な農業技術を擁する「文明」と位置づける一方で、アイヌを農業技術を持たない狩猟文化であり「未開」であると認識してきた。しかしながら多くの歴史学・考古学研究によるとアイヌは元々自前の農業文化を有しており、漁業・農業・狩猟を組み合わせた自立した経済・文化が営まれていたという。そのようなアイヌの農業を衰退せしめたのはアイヌが江戸時代に日本との交易関係に編入されてからのことであった。押し寄せる内地の商人たちが求めるニシンや毛皮。「比較優位」の論理によりアイヌ文化は漁業と狩猟へ特化し、農作物を内地へ依存するようになっていく。「農業技術を持たない未開の狩猟民族アイヌ」という構図は他ならぬ日本との関係性の中で作られていったというのである。だが国民国家日本は近代以降、農業技術をアイヌに普及させるという「文明化」の使命を掲げアイヌを劣位の国民として包摂していくことになる。アイヌの目から見て「近代化」とは?「進歩」とは?決して一様ではない「近代」の経験について考えさせてくれる。

後の章では辺境のマイノリティの視点から近代国民国家の「シティズンシップ」を再考する作業が展開される。T.H.マーシャルらのシティズンシップ論研究と多様な先住民族の経験を突き合わせていく中で既存のシティズンシップ論が視野に入れてこなかったことが明らかになると同時に、先住民族のシティズンシップに関する新しいモデルの萌芽についても紹介されている。おそらく今後何度も振り返ることになるだろう刺激的な議論だ。
自らを知るために ★★★★★
アイヌについてもともと特別に関心があるわけではなかったのですが、この本を手に取り問題意識が徐々に湧き出てきて、今まで無関心でいた自分に恥ずかしさを感じました。どのような人も読むべきであり、そして心を動かされる書物ではないかと思われます。「近代」が「進歩」する過程で取り込んできた少数の先住民である「アイヌ」を日本の「歴史」として語るのでなく、もはや発言することのできない「アイヌ」から見たときその歴史はどのようになるかを検討する試み。外に視点をおくことで「日本」という国や「現代」という「世界」がどのような地盤の上になりたっているかをきわめてvividに感じさせてくれるものであり、臨界点にこそもっとも真理が現れやすいという意味で「日本」のもっとも内密な部分を描写できているように思います。著者の論理も押し付けがましくなく客観的であり、問題を「アイヌ」と限定しておきながらその本質を丁寧に探っていくことで、さまざまな状況に普遍的にあてはまる内容となっています。マイノリティを知るという意味ではなく、我々をよりよく知るという意味で特に日本人は手にすべき書物のように思います。ただこのような書物は我々では書けるものではなく、日本人でない彼女こそがなしうるもののようにも思います。
「存在し得ないアイヌ問題に寄せて」 ★★★★★
 本書は、アイヌという少数民族が「近代化」ゆえにその尊厳を貶められていく過程を多角的に分析したカルチュラル・スタディーズの良書であり、いわゆる「アイヌ問題」が本来「シャモ(和人)問題」にほかならないという歴史が検証されている。

 「アイヌ問題」が「シャモ問題」にほかならないとはどういうことか。それは、アイヌの歴史がひたすらシャモに「①侵略され②搾取され③屈従し、たまりかねて④反乱を起こしては⑤弾圧される」(みなもと太郎)という5つの繰り返しであったことに端的に示されている。常に問題があるのは多数者の側だと指摘する著者は、日本で「アイヌ問題」は存在し得ないという確信に基づき、アイヌの歴史を自分たちの現在に結びつけて考えようとしない私たちの傲慢な無知と想像的貧困を、彼女の生きるオーストラリアの状況とも重ね、自身の問題として真摯に考察する。

 日本の対ロシア外交の焦点の一つである北方領土について私たちシャモが語るとき、どれだけの人がアイヌ-日本とロシアという2つの国家に組み込まれ/引き裂かれていった存在-に思いをめぐらせているだろうか。アイヌ語でシャモとは「おとなりさん」という意味である。一方、日本語でアイヌとはどういう意味合いを持つのだろう。確かなことは、「旧土人保護法」が1997年にようやく廃止された後も「日本は単一民族である」といった妄言を振りまく低レベルな政治家が後を絶たず、彼らに対して私たちシャモが猛然と抗議をしたという話も聞かないということだ。

 「北方領土が世界の国境を解体するモデルになればいいのにね」と私の友人がいつか話したことがある。その柔軟な思考にはっとさせらると同時に自らがまだ内なる国境に囚われていたことに気づいた瞬間だった。願わくは本書があなたにそうした心地よい刺激を届けてくれることを。

従来の歴史観を問い直す ★★★★★
アイヌという少数民族が、日本とロシアという、二つの近代国民国家に組み込まれ/引き裂かれていったことを多面的に考察した秀逸な一冊。個人的には、本書を読んだ最大の収穫は、多数の「近代の経験」があるということを思い知らされたことである。

特に自分は、本書の第一章と第二章を読んでいてその刺激に体が震える思いがした。

近年の日本史学は、アイヌを「未開であるがゆえに」もともと農業技術を持たない、狩猟採集民族だとみなしているという。しかし著者は、多数の資料をあげつつ、アイヌ民族は近代よりはるか以前から独自の農耕技術を持っていたことを示す。さらに著者は説得的に主張する。そんな彼らの生活は、近世から近代にかけて行われた徳川による植民地化によって、根本的に変わっていったのだ。つまり、半強制的な日本との交易の中で、アイヌ民族は、狩猟採集に集中することを余儀なくされ、その農耕技術を手放さざるを得なくなった。アイヌを農業技術を持たない「未開」民族であると分類するのは、そんなアイヌを「文明人」の立場から観察する日本の歴史家たちなのだ・・・

近代の経験とは、国民国家に巻き込まれる経験とは、単に「進歩」「発達」するということではない。アイヌのように、いままで培って来た技術を捨てて「退歩」「未開化」せざるを得なくなることも、また近代の経験なのである。この本は、こうした、中心にどっぷりつかっていては、公式の歴史を読むだけでは、絶対に得られない視点を提供してくれる。

三章以降では、オリエンタリズム、アイデンティティ・ポリティックス、少数民族の市民権獲得などの問題が扱われており、これらのトピック自体はカルチュラルスタディーズ系のマイノリティ研究では定番という印象も受ける。しかし豊富な文献からの引用と、印象的かつ説得力のある具体例を多数集めており、これまた着実に読ませる内容となっている。

最先端の一冊 ★★★★★
これまで「日本国民」「日本人」「大和民族」「多数派」の観点でアイヌ史は記述されてきた.アイヌは,北海道という(旧ソ連との)物理的国境境界線上に存在する民である.と同時に,歴史・習俗・言語的伝統において,(一般「日本国民」との)差異を孕むという意味で,(「日本国民」との)精神的境界線上に存在する民である.

「多数派」の観点では境界線上の民とされるアイヌの観点で歴史を眺めると,何が見えるだろうか? そのような問題意識で書かれたのが本書だ.

例えば「日本史」によると,アイヌは明治時代までは,狩猟採集社会で,歴史区分的には「縄文期」に相当し,農耕は明治時代にもたらされたと考えられてきた.私自身,高校の社会科教師にそう習った記憶がある.しかし実際には,アイヌは明治以前に既に独自の農業を営んでいた.前近代アイヌ=狩猟採集社会 という誤った認識が流布したのは「『日本人』がそうあって欲しいと考えたアイヌ像が歴史認識に投射されたから」に他ならない.

換言すれば「アイヌは遅れている」「遅れていて欲しい」「だから我々がアイヌを啓蒙し『日本国民』化するのだ」という「多数派」「日本人」の暴力的な(無)意識が,歴史観に入りこんでいたのだ(しかもアイヌ式農耕を消滅させたのは,当の「日本人」なのだ! 何て自作自演ぶりだろう!).アイヌの存在は「日本」という概念や「天皇を中心とする神の国」的な世界観が,創られたものであることを暴露する.
本書は「歴史観」や「世界認識」の公平さや政治的価値中立性を保つことが,如何に困難かを示す一塊である.重要なのは,自己の認識の恣意性を十分意識した上で,絶えず反省し問うて行くことだ.「わたしたちの疑いはまさに疑いでありつづけるほかない」(本書p93).我々の世界認識の再考を促す一冊.