「アイヌ問題」が「シャモ問題」にほかならないとはどういうことか。それは、アイヌの歴史がひたすらシャモに「①侵略され②搾取され③屈従し、たまりかねて④反乱を起こしては⑤弾圧される」(みなもと太郎)という5つの繰り返しであったことに端的に示されている。常に問題があるのは多数者の側だと指摘する著者は、日本で「アイヌ問題」は存在し得ないという確信に基づき、アイヌの歴史を自分たちの現在に結びつけて考えようとしない私たちの傲慢な無知と想像的貧困を、彼女の生きるオーストラリアの状況とも重ね、自身の問題として真摯に考察する。
日本の対ロシア外交の焦点の一つである北方領土について私たちシャモが語るとき、どれだけの人がアイヌ-日本とロシアという2つの国家に組み込まれ/引き裂かれていった存在-に思いをめぐらせているだろうか。アイヌ語でシャモとは「おとなりさん」という意味である。一方、日本語でアイヌとはどういう意味合いを持つのだろう。確かなことは、「旧土人保護法」が1997年にようやく廃止された後も「日本は単一民族である」といった妄言を振りまく低レベルな政治家が後を絶たず、彼らに対して私たちシャモが猛然と抗議をしたという話も聞かないということだ。
「北方領土が世界の国境を解体するモデルになればいいのにね」と私の友人がいつか話したことがある。その柔軟な思考にはっとさせらると同時に自らがまだ内なる国境に囚われていたことに気づいた瞬間だった。願わくは本書があなたにそうした心地よい刺激を届けてくれることを。
特に自分は、本書の第一章と第二章を読んでいてその刺激に体が震える思いがした。
近年の日本史学は、アイヌを「未開であるがゆえに」もともと農業技術を持たない、狩猟採集民族だとみなしているという。しかし著者は、多数の資料をあげつつ、アイヌ民族は近代よりはるか以前から独自の農耕技術を持っていたことを示す。さらに著者は説得的に主張する。そんな彼らの生活は、近世から近代にかけて行われた徳川による植民地化によって、根本的に変わっていったのだ。つまり、半強制的な日本との交易の中で、アイヌ民族は、狩猟採集に集中することを余儀なくされ、その農耕技術を手放さざるを得なくなった。アイヌを農業技術を持たない「未開」民族であると分類するのは、そんなアイヌを「文明人」の立場から観察する日本の歴史家たちなのだ・・・
近代の経験とは、国民国家に巻き込まれる経験とは、単に「進歩」「発達」するということではない。アイヌのように、いままで培って来た技術を捨てて「退歩」「未開化」せざるを得なくなることも、また近代の経験なのである。この本は、こうした、中心にどっぷりつかっていては、公式の歴史を読むだけでは、絶対に得られない視点を提供してくれる。
三章以降では、オリエンタリズム、アイデンティティ・ポリティックス、少数民族の市民権獲得などの問題が扱われており、これらのトピック自体はカルチュラルスタディーズ系のマイノリティ研究では定番という印象も受ける。しかし豊富な文献からの引用と、印象的かつ説得力のある具体例を多数集めており、これまた着実に読ませる内容となっている。
「多数派」の観点では境界線上の民とされるアイヌの観点で歴史を眺めると,何が見えるだろうか? そのような問題意識で書かれたのが本書だ.
例えば「日本史」によると,アイヌは明治時代までは,狩猟採集社会で,歴史区分的には「縄文期」に相当し,農耕は明治時代にもたらされたと考えられてきた.私自身,高校の社会科教師にそう習った記憶がある.しかし実際には,アイヌは明治以前に既に独自の農業を営んでいた.前近代アイヌ=狩猟採集社会 という誤った認識が流布したのは「『日本人』がそうあって欲しいと考えたアイヌ像が歴史認識に投射されたから」に他ならない.
換言すれば「アイヌは遅れている」「遅れていて欲しい」「だから我々がアイヌを啓蒙し『日本国民』化するのだ」という「多数派」「日本人」の暴力的な(無)意識が,歴史観に入りこんでいたのだ(しかもアイヌ式農耕を消滅させたのは,当の「日本人」なのだ! 何て自作自演ぶりだろう!).アイヌの存在は「日本」という概念や「天皇を中心とする神の国」的な世界観が,創られたものであることを暴露する.
本書は「歴史観」や「世界認識」の公平さや政治的価値中立性を保つことが,如何に困難かを示す一塊である.重要なのは,自己の認識の恣意性を十分意識した上で,絶えず反省し問うて行くことだ.「わたしたちの疑いはまさに疑いでありつづけるほかない」(本書p93).我々の世界認識の再考を促す一冊.