誠実な哲学探究の歩み
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非常に誠実な人柄が表れた、哲学探究の自伝である。上田氏は、多くの著作で西田幾多郎について書いているが、実際には一度も会っていない。ヘーゲル、ハイデガー、ヤスパースと関心が移り、やがて中世ドイツ神秘主義を研究するようになり、ドイツへ留学する。ここで初めて西田幾多郎の存在が大きな意味を持ってきた。しかし、ビルマで修行し、東大で宗教学を研究した学僧を父に持ち、高野山で育ち、そして禅の修業も経ているのだから、最も相応しいテーマと言えるだろう。
上田氏の取り組みは、まさしく周到である。彼の性格もあるが、外国での講義と講演で西田を扱ったことで、徹底した理解を必要としたのだろう。誠実な上田氏は、「純粋経験」という言葉が何十年も難題として立ち塞がっていることを、正直に書いている。本書は、誠実な著者の歩みを辿りながら、読者も西田哲学の深山に分け入ることができる良書である。
上田氏には、西田幾多郎、西谷啓治から続く、深い禅思想の流れがあると同時に、政治や社会との乖離の伝統もある。西田は、家族が次々と病に倒れ、重い障害を得、ある者は死ぬいう苦しい経験があり、彼の哲学に独特の深さを与えている。ただ、彼の弟子たちが生きたのは、現実の悲惨さとはある程度隔離された世界であるように感じてしまう。エックハルトは、聖パウロのような啓示を受けている最中であっても、飢えている隣人に施すことの方が大切であると書いている。このような視点が、日本の宗教哲学の伝統には欠けているように思う。
上田氏は、シュバイツアーの著作の翻訳もあるが、シュバイツアーのような生き方が出来る人は少ないとしても、宗教を真摯に研究する者には、現実の悲惨さに対してどう向き合うかということが大きな問題ではないだろうか。どんなに厳しい修行や、想像を超えるような学問の努力でも、生きること自体が苦しいような人生の重さには比べようがないと思えるからである。学問の府を一歩出れば、苦しみは世の中に満ちている。世界の中にある苦しみや、悲しみとどう関わるかという問題は、宗教の根本問題ではないか。宗教哲学を探求する人にも、その関わりを求めたいと思う。