評価が固まっている大家や大作を批判するにはエネルギーが要ります。それは、その作品に対する評価を疑問なく受け入れている人たちに対して、自らのスタンスを持って、孤独に立ち向かうことになるからです。自分がその作品の価値を認めるくらいには成熟していない、と世間に向かって公言することになるかもしれない。ですが、そんなリスクを取ってこそ、本当の意味でいい批評ができるのではないか、と思います。
さて、井伏氏は偉大な作家として高い評価を受けていますが、この作品集を読むかぎりでは、その凄さを体感できませんでした。もちろん表題作の、その端麗な筆致とハッとさせられる結末は素晴らしいです。ですが、その他の作品については、繊細すぎるのか、メッセージがうまく隠蔽されてささやかすぎるのか、読後に何かが残らないのです。緻密な構成と文章の美しさには脱帽しますが、魂を揺さぶられるような、心の震えみたいなものが、私には感じられませんでした。
ほとんどの小説に共通するのは、「屈託」である。何度も出てくる。「くったく」とひらがな表記のこともある。
文章には、人を寄せ付けないような所がある。ほとんどが一人称で、主人公の屈託が作者と読者の間に障害となっている。
「なんたる咎だりますか!」(p41)のように、「○○だります」という言葉が、せりふの中に何度か出てくる。これが「○○であります」なのだろうとわかるまで、少し時間がかかった。