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山椒魚 (新潮CD)

価格: ¥2,100
カテゴリ: 単行本
ブランド: 新潮社
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【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 出版社名:新潮社 発行年月:2001年11月 関連キーワード:シ-デイ- サンシヨウウオ CD し-でい- さんしよううお CD、 シンチヨウシヤ 3162 しんちようしや 3162、 シンチヨウシヤ 3162 しんちようしや 3162
何度読みかえしてみても美しい ★★★★★
表題作の山椒魚は、最初の一文から強く惹きつけられる
行間の味わいが秀逸である。
なんとも隠しきれぬ嫌世感が、味わいに奥行きを持たせている。
無駄のない的確な情景描写と、山椒魚や蛙が発する全ての言葉が美しい。
他11の短編は、おまけ。
絶望の中で…… ★★★★★
蛙を岩屋に閉じ込めることに成功した山椒魚は自分もそこを抜け出せなくなる。絶望の密室の中二人にやがて死という運命が……この後どういう展開になるのか。短編小説はこのような余韻が大事。
手頃な短編集 ★★★★★
「山椒魚」(幽閉)は、若き太宰治をして「埋もれたる天才」と評せしめた小品。その佇まいは飄々としながら屈託している、独特のユーモアのなかに含羞がある。それは「山椒魚」に限られない、井伏鱒二その人の佇まいである。

氏は生前、詩人と呼ばれることを非常に悦んだという(河盛好蔵「人と作品 詩人井伏鱒二」井伏鱒二『厄除け詩集』講談社文芸文庫113頁)。その反面、自らの詩については「詩のような形」で書いた、というはにかんだ言い方でこたえている(大岡信「こんこん出やれ―井伏鱒二の詩について」同138頁)。むぅ。井伏作品の読後感のように、なんともいえない微笑みが、思わず漏れ出てくる。

井伏氏には拭い難い厭世癖があった。それを受け容れる寛容さがあった。氏の作品中には、善人ばかりが出てくるわけではない、かといって、極悪人が出てくるわけでもない。しかしどの人物もなぜだか実にほほ笑ましく見えてしまう。一種のノスタルジーがそうさせるのかもしれないけれど、過去を美化したり否定するようなズカズカとしたノスタルジーなどでは決してない。厭世癖は、あくまで厭世癖であった。世の中を軽蔑しきれなかった。冷ややかな現実観察には常に温かさがまとわりついていた。

この『山椒魚』には、短編の代表作が収録されている。ただ、「鯉」は収録されていない。それは岩波文庫版を参照されたい。己のなかに厭世癖を感じ取る人、何気ない温もりが嫌いでない人、井伏作品を読んだことのない人には、お勧め。有名な『黒い雨』よりこちらのほうが、私は好きである。しかし「駅前旅館」はじめ、井伏作品が最近絶版気味であるのは、少々もの哀しい気がする。
井伏氏の初期短篇集 ★★★☆☆
大きくなりすぎて、狭い岩屋の外に出られなくなってしまった山椒魚の孤独を描いた井伏氏の処女作である表題作のほか、ダムで水没する村に住む老人を語る「朽助のいる谷間」、二つの旅館の番頭として働く男の二面性を描写する「掛持ち」、不思議な雰囲気の「夜ふけと梅の花」など、初期短篇12編を収録する。

評価が固まっている大家や大作を批判するにはエネルギーが要ります。それは、その作品に対する評価を疑問なく受け入れている人たちに対して、自らのスタンスを持って、孤独に立ち向かうことになるからです。自分がその作品の価値を認めるくらいには成熟していない、と世間に向かって公言することになるかもしれない。ですが、そんなリスクを取ってこそ、本当の意味でいい批評ができるのではないか、と思います。

さて、井伏氏は偉大な作家として高い評価を受けていますが、この作品集を読むかぎりでは、その凄さを体感できませんでした。もちろん表題作の、その端麗な筆致とハッとさせられる結末は素晴らしいです。ですが、その他の作品については、繊細すぎるのか、メッセージがうまく隠蔽されてささやかすぎるのか、読後に何かが残らないのです。緻密な構成と文章の美しさには脱帽しますが、魂を揺さぶられるような、心の震えみたいなものが、私には感じられませんでした。

屈託に満ちた小説集 ★★★★☆
 井伏鱒二の短編集。表題作のほか、「朽助のいる谷間」「岬の風景」「へんろう宿」「掛持ち」「シグレ島叙景」「言葉について」「寒山拾得」「夜ふけと梅の花」「女人来訪」「屋根の上のサワン」「大空の鷲」を収録。
 旅先での経験、という内容の小説が多いが、不思議な小説が多い。実際にあったことをもとにしているような、完全な空想の産物のような。

 ほとんどの小説に共通するのは、「屈託」である。何度も出てくる。「くったく」とひらがな表記のこともある。
 文章には、人を寄せ付けないような所がある。ほとんどが一人称で、主人公の屈託が作者と読者の間に障害となっている。

 「なんたる咎だりますか!」(p41)のように、「○○だります」という言葉が、せりふの中に何度か出てくる。これが「○○であります」なのだろうとわかるまで、少し時間がかかった。