数ある歌舞伎事典の中で、本書を一押しとする理由は、著者のスタンスと個性が明確にあらわれているからだ。情熱あふれる語り口と、確固として揺るがない独自の演劇論、「情」と「理」の絶妙なバランスが、渡辺流劇評の特徴であり、魅力でもある。本書も例外ではなく、ほかの誰でもない、「保さんの」ガイドブックになっているのだ。
「何度か上演されていても作品として愚劣なものは除き」と、「凡例」からして絶好調。歯切れの良い文章で、「物語」「みどころ」「成立」「芸談」「蛇足」と読み進む。最もエキサイティングなのが「みどころ」だ。
肌の合わない鎌倉武士が憎しみ合ってついには殺し合いになる「鎌倉山」を「今日の企業や役所のどこにでもある(話)」とし、「そういうドラマを簡潔端正なせりふ劇にした」と分析する。ピカレスク物の「小猿七之助」では、「幕末の嗜好は、ほとんど現代のポルノ」と言い切る。この歯切れの良さ、現代的な視点が、類書にない魅力となっている。
高価な筋書を買うのもいいが、歌舞伎見物の友には本書を、とすすめたい。(長井好弘)