反省的視点としては、例えば、日本は「個人」ではなく「世間」の世界なので、一般人は神話的な歴史観以外の歴史観は理解できない。学問としての歴史は明治以後に自然科学と同様な理解の下に西欧から輸入されたが、西欧的個人の概念を理解していなかったので、その価値を生かしきれず今日に至っている、等々。
一方また、「世間」を対象化することで人間を他の自然と対立させた、収奪的でもある西欧的な個人ではなく、日本的「個人」を、ひいては日本的「歴史意識」(つまり生き方と言う意味が含まれているのだろうと思います)が作られることが可能であるともいっておられるのではないかとも思いました。
なるほど、と思った。が、説得力がない。著者の『「世間」とは何か』は、私たちがふだん漠然と抱いている思いや感覚の意味や意義を、古典文学を多用しつつ解読した名著だった。今回は失敗である。「日本人」の「歴史意識」などという巨大(誇大)なテーマを、「世間」というひとつのキー・ワードだけで考証しつくせるわけがないではないか。学者としてのモラルが問われるところだ。本書の後半なんか、学者世間のグチばかりが頻出して、この本で勉強しようと思って読みはじめた私は、興ざめしてしまった。
この本は、学者として広い「世間」に認められた人間にしか書けない本だ。議論が多少はずさんでも、「作品」として通用してしまうのだ。これを「権威」という。そしてこのレヴューのような見解は支持をえられない。だって、「世間」の価値にのっとっていないから。