日本人が大切にするのは「社会」ではなく「世間」である
★★★☆☆
日本人がその行動規範とする「世間」
とは何か,歴史を追って,時代時代の文学作品や
席巻下,宗教を背景に考察した本である。
私見だが「世間」は「世間様」さらに「お世間様」
丁寧語で称される大切で,価値観の上部に位置する、
日本人にとって晒されなければならない
世の中の監視の目なのである。
「そんなことをしたら,お天道様の罰が当たるよ」
と言うが,このお天道様もまた,世間とほぼ同義語だろう。
岡林信康さんの歌の歌詞に
「田舎のいやらしさは 蜘蛛の巣のようで
おせっかいのベタベタ 息が詰まりそう」
とあるが,このベタベタなのもまた「世間」と言うことだ
周りに合わせなければと、強迫観念にとらわれている人に。
★★★★★
まわりの人や雰囲気に、無理やり自分を合わせようとして苦労している人、した人がいると思う。
この本では、世間と自分はどういう関係、距離をもつことができるのか、その可能性を、慈円、兼行、西鶴、漱石、金子光晴などを紹介しながら示してくれる。
僕が中学生のとき、雑誌Boonがファッションのバイブルだった。
ゲスパン(Guessというブランドのパンツ)が流行った。
古着やナイキのスニーカーが流行った。
クラスメイトは皆だいたい同じような恰好をしていた。
僕は、何がどう良いのかわからなかった(※今では良さもわかる)が、とりあえずクラスメイトに合わせようと必死になっていた。
その流れについていかないと、取り残されたり、いじめの対象になってしまうような雰囲気を感じた。
学校での生活だけが自分の世界だった当時の僕にとっては、これは些細な問題ではなく、
だんだんと自意識過剰になり、強迫観念にとらわれ、最後には閉塞感に陥った。
高校で環境が変わり、世界が少し広がって、それまでとは少し違う関係を持てるようになった。
卒業後、海外で数年過ごしたことで、自分の生きていた世間を少し相対化できるようになった。
自分が生活してきた環境を、客観的に考えることができるようになり、だいぶ楽になった。
そのとき気付いたのは、学生の時感じた強迫観念や閉塞感は、同一を求める空気や、マイノリティを認めようとしない、日本の「世間」に起因する問題なのではないかということだった。
僕と同じように悩む人、悩んだ人には是非お薦めしたい。
世間は変えられなくても、世間の受け止め方を変えることで、少し楽になったり、解決できる問題もある。
また、慈円、兼好、西鶴というと、とっつきにくい感じがする人もいるかもしれないが、西鶴の下ネタなどがアクセントになって、意外と飽きずに読みすすめられたりするので、とりあえず読んでみることをお薦めする。
『世間』の歴史
★★★☆☆
鴻上尚史著『「空気」と「世間」』を読んで参照元であるこちらの本を読んでみました。
世間との折り合いの付け方を書いてあるのかと思って期待していたのですが、世間の歴史を平安時代から現代までの鍵となる人物を通して説明しています。世間を知る一助になりました。
東西の個人と社会そして「自由・平等・平和」の成り立ち
★★★★★
自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫 あ 4-3) は著者がヨーロッパ社会に興味を持ち、西洋中世史を志すようになった経緯をとおして、ヨーロッパ中世史を人間関係の変化から読み解いています。たとえば、なぜ自然科学や資本主義がヨーロッパに誕生し、発達したか。二つの宇宙(ミクロコスモス、マクロコスモス)の章では、なぜ中世人たちは、占星術を深く信じていたかや、神殿をめぐって「アジ−ル(避難所)」が語られます。唐突ですが、高校生が発した質問「鎌倉以降天皇の力が弱くなりながらもなぜ現代まで存続できたのか。」「なぜ、平安末、鎌倉という時代に優れた宗教家が多く現れたのか。」という問題に答えようとして、網野善彦は日本中世のアジ―ルについて「無縁・公界・楽(平凡社)」を書いたわけですが、この大きな質問は、この「無縁」原理がキリスト教会によって制度化され、ヨーロッパにのみ、なぜ自由・平等・平和の思想が生み出されたかということにつながっていきます。さて、人間関係といえば、人間と人間のあらゆる関係の総体を社会(society) と呼びますが、阿部氏は日本にはヨーロッパ社会と異質の、「世間」があることを指摘しました「「世間」とは何か(講談社) 」。日本の学者の大多数が日本社会を「社会」という言葉で論ずるとき、実際の日本社会「世間」とのずれを全く理解していないことを指摘しました。また、社会は、個人から成り立っていますが、日本おける個人のあり方とヨーロッパにおける個人のあり方は根本的に異なっています。ミッシェル・フーコーが指摘しているようにヨーロッパにおける「個人」の成立にカトリックの「告解」が深くかかわっていますが、阿部氏は、さらに中世人が告解をとおして「男と女の関係の問題」を「自覚」する中に個人の誕生を見たのです。(「西洋中世の男と女」筑摩書房)。
世間は何かは人それぞれ
★★★☆☆
社会と世間との違いはわかったが、現代一般に使われている世間の解体はされずに終わってしまった。