裁判の冒頭においてキーナン主席検事は、この裁判は「文明の裁き」であると位置付けた。即ち、野蛮な日本の文明が、正義の西洋文明によって裁かれるという図式である。
丸山真男をはじめとする多くの文化人といわれる人々が、この論調にのって、卑怯未練、邪悪な一部の戦争指導者によってこの戦争は引き起こされ、一般の国民は騙されていたのだといういかにも居心地の良い自己弁護論を展開した。
このような戦争責任を一部の指導者にかぶせて、多くの日本人が見事に戦争の被害者に変身してしまった。このような責任の転嫁が、結局戦後の日本人の総無責任体質を作ってしまったのかもしれない。
東京裁判はキーナンの意味したところと、全く異なった文脈において「文明の裁き」であったことを、著者は詳細なデーターを駆使し抉り出して行く。
丸山真男はニュールンベルグ裁判に臨むナチ指導者と東京裁判における日本人戦犯を比較し、日本人戦犯は責任逃れに終始しているが、ナチス指導者はそうではないといった論考をおこなっているが、これが全く事実と反するばかりではなく、丸山による意図的な資料の削除があることなどを克明に検証している。
竹山道雄による早い時期からの東京裁判批判、あるいは東郷茂徳外相が当時の与えられた情況下でいかに日米開戦回避に努力したか、嘗ての敵国の戦争指導者たちの弁護を行うという米国市民としてはまことに難しい立場にたちながら、見事にその職責をはたした米国人弁護人ブレークニーの弁護士倫理観、等々、本書ではじめてしるようなエピソードも豊富で論文形式をとっている所為も相俟って、説得性に満ちた東京裁判論、文明論となっている。