さて、この方の経歴を見るとチベット仏教に帰依し、すぐれた師であるリンポチェの元で修行し、それなりの正果を得ているのはすぐわかる。確かに四諦八正道や禅定のやりかたについて論理的にきちっと書かれているのはさすがと言える。
但し、問題が二つある。
一つは無分別智である。チベット仏教に限らず大乗仏教の場合、最終的には「それ」とは何かについて触れざるを得ない。それについて全く書かなかったのは一体どうしたわけだろう。
二つ目は一に関連するが、この本を読んでいると場合によっては「虚無論」と誤解されかねない文章が多々見受けられる。
例えば第7章「望みなさと死」(この題名だけで明らかに誤解されかねないが)の最初の要約には「安全な状態や苦しみのない状態への期待を放棄すれば、よりどころのない状況のなかでリラックスするだけの勇気が生まれてきます」とある。とんでもない。かなりの人がこの7章の状況に追い込まれた場合、(アメリカ・日本を問わず)自死を選んでいることをこの著者は完全に忘れている。
つまりこの尼僧は四法印(諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静)のうち、本の大部分を裂いて最初の三法についてさまざまな表現で書いているにもかかわらず、最後の涅槃寂静についてどこを探してもきちっとした説明が無かった。
これでは「虚無論」の書である、と誤解されてもやむをえまい。