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すべてがうまくいかないとき チベット密教からのアドバイス

価格: ¥4,980
カテゴリ: 単行本
ブランド: めるくまーる
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チベット密教における「ヴィパッサナー瞑想」と「トンレン」 ★★★★★
 アメリカ精神世界のベストセラーとなったという本書の著者は、チベット密教を北米に紹介した
チュギャム・トゥルンパ師に師事したとのこと。
 チュギャム・トゥルンパはケン・ウィルバーのチベット仏教の師でもあり、ということは著者は面識があるかはわかりませんが、ケン・ウィルバーの兄弟弟子ということになるようです。

 本書の素晴らしい点の一つは、上座部仏教において代表的なメソッドとして紹介される「ヴィパッサナー瞑想法」について、チベット仏教の見地から非常に詳しく解説してくれているということです。
 本書では「シャマター・ヴィパシュアナ(止観)」として紹介されていますが、それがチベット仏教においても基礎的なものとみなされており、大乗仏教における「菩提心」的な世界観を構築する種子であるということが、筋道の通った章の運びで読者にはっきりと教えてくれます。
 詳しくは第4、5章での紹介ですが、本書全体を通して「今に対する気づき」の重要さが繰り返し説かれています。

 思考に対して「できる限りオープンに、優しく“考えています”とラベル付けをして、大空の彼方
に消えるに任せます(p42)」という著者の言葉に、思考への「慈悲」を感じるのはわたしだけではないと思う。

 また、禅宗の知野弘文老師に著者が質問した、恐怖との関わり方についての返答「分ったよ、分ったよ、と言えばいいのです(p17)」という言葉や、「ごまかしたり拒否したりせず、その感情のエネルギーや特徴が、心を突き刺すままにしておくことです(p34)」
「苦境に陥るとどうしても気持ちがいじけてきます。でも、信じようと信じまいと、混乱し、当惑し、恥に打ちのめされる時こそ、心はより大きくなります(p176)」という言葉には、特に励まされました。

 苦境には、誰もが陥ることがある。その時に発生する自分の否定的な(あるいは都合のいい)感情に対する、判断や評価を下さない「無批判の気づき」は、そのまま無条件の受容であり「慈悲(マイトリ)」につながるものだと感じました。

 本書を読めば、望ましくない情況において、自分がどんなにそれを逃れたいと思っていても、その「逃れたい」とおもっていること自体に「気づく」という新たな手段を獲得することができる。
 また、本書はチベット仏教版の慈悲の瞑想である「トンレン」についてもその空性に通じる意義と方法を詳説してくれています。
 余談ながらわたしは失恋の痛みに苦しんでいたとき、ふとトンレンを思い出して世界中にいるであろう同じ痛みを持つ人たちに対してトンレンを瞑想したところ、たったの一呼吸でたちまち痛みが氷解して苦しみへの慈悲の気持ちが湧いてきたのに驚きました。慈悲には個人の心の痛みを回復する大きな力があることを確信しました。

 わたしにとっては★五つではとてもたりない本でした。
 上座部、大乗の仏教に関心がある人のみならず、苦しみには意味がないと思っているすべての人におすすめしたい本です。
鋭い、素晴らしい ★★★★★
素晴らしい本です。
上のレビューに「仏教にやすらぎを求める多くの読者とギャップが大きいのではないだろうか」と書いてありますが、「仏教にやすらぎを求める」こと自体が仏教の誤解であり、苦の原因でもあります。一次的に空想の安らぎを求めるならば、「仏教ごっこ」的な本が山ほどあります。しかし、真実は難しいです。真実は勇気が要ります。苦しみを苦しみとして理解して、そこから逃げずに勇気をもって真正面から付き合うことが、真の安らぎをもたらします。
この視点はきびしい ★☆☆☆☆
「期待をしないこと」「望みを捨てること」のような否定的表現のオンパレードでうんざり.いかに真理を説こうとも,この視点では,仏教にやすらぎを求める多くの読者とギャップが大きいのではないだろうか.まして悩んでいる人が,この本で新たな気づきが開けるとはとても思えない.
宗教と関係のない精神世界系の本に比べて,どうして仏教系の本には面白いのが少ないのだろう.
最も真実度の高い宗教として仏教への期待は高い.がんばれ仏教界!
すぐれた識見と誤解を招く表現 ★★☆☆☆
まず、最初に断っておく。この本は現在うつ病ないしストレスを貯めている人は「絶対に」読んではいけない。なぜなら「意味を取り間違えた」場合、症状を悪化させかねないためである。

さて、この方の経歴を見るとチベット仏教に帰依し、すぐれた師であるリンポチェの元で修行し、それなりの正果を得ているのはすぐわかる。確かに四諦八正道や禅定のやりかたについて論理的にきちっと書かれているのはさすがと言える。

但し、問題が二つある。

一つは無分別智である。チベット仏教に限らず大乗仏教の場合、最終的には「それ」とは何かについて触れざるを得ない。それについて全く書かなかったのは一体どうしたわけだろう。
二つ目は一に関連するが、この本を読んでいると場合によっては「虚無論」と誤解されかねない文章が多々見受けられる。

例えば第7章「望みなさと死」(この題名だけで明らかに誤解されかねないが)の最初の要約には「安全な状態や苦しみのない状態への期待を放棄すれば、よりどころのない状況のなかでリラックスするだけの勇気が生まれてきます」とある。とんでもない。かなりの人がこの7章の状況に追い込まれた場合、(アメリカ・日本を問わず)自死を選んでいることをこの著者は完全に忘れている。

つまりこの尼僧は四法印(諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静)のうち、本の大部分を裂いて最初の三法についてさまざまな表現で書いているにもかかわらず、最後の涅槃寂静についてどこを探してもきちっとした説明が無かった。
これでは「虚無論」の書である、と誤解されてもやむをえまい。