時々の歴史的事件を明治天皇の側から捉えるような流れであるが、本書に著者が自ら記すように、明治14年侍従である萩昌吉が、明治天皇が風呂場で各参議の人物評を行ったのを記したのが、明治帝の肉声を伝える最初の記述である。
つまり、明治帝の内なる思いを聞いた記録がない本書の前半部分は、ある意味その意思を図るとしてもそれは作者の想像であり、また想像するにしてもその身分の高貴さ故に文章におもしろさはかけているかもしれない。
しかしながら、明治帝に関する関心があまりはらわれない昨今、つま多くの人々がその知識が不十分なるに本書を読めば、十二分に自身の興味をひくものだと思う。
一つの例として、いまだに明治帝が生誕した一軒家が京都に存在しているという事実を、歴史好きな人でも存知あげない方が多いのではないでしょうか(私も知りませんでした。)。
ちょっと高いですが、読んでみてください。
「明治天皇」では割愛されている天皇個人のエピソードの
が話し言葉で語られており裏話的で楽しめました。
著者は「明治天皇を発見することである」と目的を記している。詳細な注釈を縦横に駆使しながら独自の論考を展開し、著者のその目的を見事に果たしている。司馬遼太郎の著述からのイメージ、そして子どもの頃ではあったが30年ほど前に話題になったテレビドラマでの明治天皇のイメージ、これらのおぼろげな私の明治天皇像は微妙に変更され、ぼけていたピントがかなり明確になる。
日本学の大家、つまり学者の大著述であるから、適切な表現ではないかも知れないが、映画を見ているような本でもある。それもドキュメンタリー手法に長けたイギリス映画(キーン氏は米国人であるが)を彷彿とさせる。
たとえば、本当に言いたいことのかなり前の部分でそのプロットとなるようなエピソードに軽く触れていたりする。このような手法が「読んで面白い」ことの要素なのだろうと思っている。
同時に天皇は、西郷の心中を思いやった。西郷は長く側近として天皇に仕え、その性格は天皇のよく知るところだった。今や賊徒の烙印を押され、錦旗に刃向かう立場にあるとはいえ、西郷の心中は察して余りあるものがあった。天皇は、西郷を深く憐れんだ。木戸は、功臣を思う天皇の憐憫の情に深く感涙したという(*17)。
これは、一片の美談に過ぎないように見えるかもしれない。しかし明治天皇が示した憐憫め情は、同じような状況に置かれた際にヨーロッパ人が示す態度に照らして見るならば、実に注目に値することだった。自分が信頼し贔屓にしていた男が反乱を企てていることを知った時、ヨーロッパの君主であれば恐らく男の忘恩行為に怒号を浴びせた違いない。男が反乱を決意するに到った心の痛みなど、君主の眼中にないことは言うまでもない。
(中略)
同じことは、天皇の身近にいた木戸孝允のような人物たちについても言える。彼らは、(戦時にありがちなように)敵の指導者を裏切り者とか、忘恩の徒よばわりすることがなかった。木戸は西郷について、こう語っている。「隆盛は決して(後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏の如き姦悪にあらず、惜しいかな、識乏しくして時勢を知らず、一朝の怒を洩らすに己の長ずるところを以てして、身を亡ぼし又国を害するに至れるなり、隆盛の所業固より悪むべし、然れども政府亦反省せざるべからす)と。
この本の原書を取引先のアメリカ人にプレゼントすることにした。どんなコメントを交換できるかが楽しみである。