『哲学探究』への見通しをつけるために
★★★★☆
数あるウィトゲンシュタインの「研究書」のなかでも、「明らかな誤り」と決めつけられている珍しい本。そもそも、ウィトゲンシュタインの『哲学探求』全体を貫く一般的な問題なるもの(本書によれば、それは「規則」の問題)を想定すること自体、あまりウィトゲンシュタインの精神に即しているとはいえないでしょう。そんな事情もあって、本書はウィトゲンシュタイン研究とは独立にその価値を問われるべきものである、といった評価が一般的になっています。
しかし、この本を『探求』に照らしてみて、どこが間違っているのかを自分なりに検討してみるだけでも、かなりの勉強になることは明らかです。それに、「規則に従う」という問題に『探求』を理解する糸口を見出すこと自体は、それほど害のあることではないと思います(それが『探求』のすべてだ!と主張しないかぎりは)。
本書の議論がよく整理された、明晰なものであることは誰も疑わないでしょう。しかも、大した予備知識もなく理解できることも考えれば、本書は『探求』への格好の「入門書」とすらいえるのではないでしょうか。この「入門書」は明白な間違いかも知れませんが、どこがどう間違っているのかということを「自分で考えてみる」という作業もまた、『探求』の読者には有益だと思います。「自分で考える」ことをわれわれに要求すること、この点にこそ、本書の『探求』への入門書としての価値があるのではないでしょうか。
The Very Misconstrued...
★☆☆☆☆
哲学の世界には間違いだらけの解釈を満載した駄本など珍しくはないとは言えども本書ほど徹底して間違っている駄本は珍しいと思います。著者のKripkeはWittgensteinのrule-following論の意味を扱う上で2つのクレームに、即ち1)Wittgensteinはrule-folloeingという概念を懐疑論的に攻撃していたこと、2)Wittgensteinは1)によって読者にrule-followingの非現実的community-viewを採用させようとしていたことに依存しています。そしてKripkeは「Wittgenstein never avows, and almost surely would not avow, the label‘sceptic'」としながらも「Wittgenstein has invented a new form of scepticism」と言い、そこには「There can be no such thing as meaning anything by any word」という内容が含まれていると主張しているのですが、このアナーキー的流れに於いてKripkeはWittgensteinの主張の或る部分だけを取り出してそれが全体であるかのように誤解し、また読者をその方向に強引にミスリードしているのです。