日常的言語感覚への着陸
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この本は、一言で言ってしまえば、言語における固有名というものがいかなるものなのか、そこにおける必然と偶然はいかなる地平を占めるか、を考察した本である。
ちなみに、サブタイトルの「様相の形而上学と心身問題」の「心身問題」は最後10ページほどで触れられるだけなので、この内容については大きな期待はしない方がいいだろう。
クリプキは、ラッセルなどの「固有名は述語的修飾の集まり」とする論に批判的である。
これは、可能世界を考えてみれば明らかである。
例えば、「ゲーデル」という固有名は、ラッセルの論に従えば「不完全性定理を証明した男で・・・」と言い換えられる。
しかし、可能世界において「ゲーデルがもし不完全性定理を証明しなかったら・・・」と考えることは可能である。
そして、ラッセルの論ではこの可能世界で指示が指示としての意味を失っている。
別の方法での批判も出来る。
例えば、「ゲーデル」を「不完全性定理を証明した男」と言い換えられる場合、では「不完全性定理とは何か」と問われたらどうするだろうか。
難解な数学の知識を持ち合わせていない一般人は、「不完全性定理は、ゲーデルが証明した定理である」以上のことは言えない。
さてこれでは完全に循環に陥っている。
結局クリプキは、ゲーデルが現実に満たしているほとんどすべての性質を満たさなかったとしても、ゲーデルはゲーデルであるとする。
これは、ラッセルなどの理論に比べても、随分と日常感覚に近い結論だといえるだろう。
クリプキは、「であること」と「呼ばれていること」とを厳格に分離する。
例えば、メートル原器が1メートルの長さであることは、彼は偶然だという。
1メートル=xフィートだとすると、メートル原器は他の可能世界においてxフィート以外の長さでもありうる。
そのため、メートル原器が「xフィート=1メートル」であることは偶然である。
ただし、他の可能世界において、メートル原器がyフィートであったため、yフィートを1メートルと「呼ぶ」可能性はある。
しかしこれは、yフィートが1メートルで「ある」ことを意味していない。
具体例も豊富で、おもしろい例示も多く、哲学書としては例外的に楽に読める本である。オススメ。
(なお、ラッセルの理論については三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』に詳しい)