貴重な文献
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「Q1」と言うのが何を意味するのか解らずに読み進めたのですが、その中で、何となく違和感を感じていました。
それもその筈、「Q1」とは「第一・四折本」であり、これに対して「Q2」(第二・四折本)や「F1」(第一・二折本)があり、今まで一般的に読んできたのは、こちらの方であることが解りました。
従って、この本は従来の半分くらいの分量しかないし、有名な言葉やシーンも落ちています。
しかし、その分この「Q1」は全体を捉えるには捉えやすく、その後の「Q2」「F1」の大元であると言うのも良く理解出来ます。
逆にその分、人間関係の描写が不十分だったりもしますが、翻訳者の力量も素晴らしく読みやすくなっており、大いに楽しめました。
海賊版なのか現実的変更か?短くてすっきりとした「ハムレット」。
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Q1? シェークスピア劇をかなり好きな人でないとこれはわからないところだろう。最初に出版された「ハムレット」。かなり短くて他の版との違いも多く、「海賊版か」と言われ続けた「ハムレット」。そう聞くと、なぜそれを翻訳出版?と疑問に思われるかも。でも、「上演された台本の最初の具体例」と考えたら、それなりに納得できる。
解説からの受け売りだが、「ハムレット」にはF1,Q1,Q2などの古い版がある。その中でも、Q1は上に挙げたような理由から(原著としての研究上は)軽視されてきたのだそうだ。
読んでみると、確かにとても短い。そのせいか、全体がテンポよく流れる。全体の流れがよい、と感じるのは、構成が整理されてすっきりとしていることもあるのだろう。「なぜ劇中劇が入るのか」とか「なぜオフィーリアの兄と剣の試合をするのか」とかなどが読んでいてとてもわかりやすくつながっているきがする。
戯曲は演出家の考えや様々の制約により書き加えられたり書き換えられたりするもの。書かれた内容は、そういった手が加わることで新しい輝きを帯びる。ハムレットも例外ではない。日本でも上演される場合にはあちこち大幅に整理したり、工夫がされているはずである。シェークスピアの時代にも、実際に上演するとしたら、もともとあった「ネタ本」をもとに切ったりつなぎなおしたり役者に台詞を合わせたり、このQ1のようなやり方が行われていたと考えたらどうだろう。もしかしたら、シェイクスピア自身も考案をまとめて「戯曲」としたときから既に、「時に応じて」のアレンジも念頭においていたかもしれない、と考えるのも面白い。この翻訳出版の意図もそのあたりにあると思う。
シェークスピアが書いたころから、すでにこんな「変形」もあって出版までされた、と思って読むととても面白い。
原作と戯曲と上演台本。演劇とは、紙に書かれたお話では終わらないもの、とあらためて感じた。このQ1も現代ならば「○○演出のXX」と演出家の名前をつけて公開されたら納得できるものなのかもしれない。
臨場感のあるテンポの良いハムレット。「こっちの方がわかりやすくていい」と思われるかも。
まずはQ2かF1を読んでから、Q1を手に取ってください!
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これは貴重な訳書です。おそらく『ハムレット』のQ1(第一・四折本)の本邦初の完訳ではないかな。
私が学生だった頃には、たしか、Q1なんて海賊版だから読むにあたいしない、と言われていたはずだけど、近年になって、シェイクスピアの『ハムレット』の原型をつたえるテクストとして研究の対象になっている由。
いままで日本語に訳されてきた『ハムレット』の数々は、Q2(第二・四折本)、F1(第一・二折本)、または、両テクストの折衷ヴァージョンを底本にしているので、ぜひ既訳本と本書を読み較べてみてください。
Q1は、最短の上演時間で、構成がすっきりして、ドラマの全体を把握しやすい。故・安西先生の訳は、さすがベテランの味で、よく練られている。とはいえ、『ハムレット』の一般的な舞台や映画化作品とはディテールが異なり、名ぜりふの欠落も目につく。一長一短あって悩ましいところ。
これは私の個人的な意見ですが、入門者がまず最初に読むべき『ハムレット』として、新潮文庫の福田恒存訳(Q2)か、角川文庫の河合祥一郎訳(F1)を挙げておきたい。そのあとで、本書(Q1)を読むと興味深いのではないかしら。いきなりQ1だけをひととおり読んで『ハムレット』を卒業してしまうのは、もったいないと思います。
吉本新悲劇で観たい演目だ!
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「生きるべきか、死ぬべきか、はたまた、生か、死か、それが問題だ」っていう超有名なキャッチ・コピーだけが私の中で先行していて、満足にこいつを読んだことがなかった。読みやすさで既に定評のある古典新訳であることと、「これがハムレットの原形だ!」っていう腰巻にひかれて、読み始めた。
Q1は海賊版であるとか、上演を重視するならやはりF版だ、とかいう専門的なことよりも、私は肝心のこの悲劇の粗筋を追ってゆくことに重点をおいた。王位継承のお家騒動か、中年女性のよろめきドラマか、はたまた若い二人の別れ恋物語か、そして誰もいなくなったというお決まりのラスト・シーンか。
Q1だからか、やはり省略しすぎているのだろうか。ハムレットと親友であるはずのホレイショとの関係とか、恋仲であるはずのハムレットとオフィーリアとの関係とかが、過去いろんなメディアで取り上げられたり、書かれてきたことを考えると、このオリジナルは余りにも淡白すぎるのじゃないだろうか。
やはり演劇は戯曲を読むっていうのじゃなくて、舞台を観るほうが「理解できる!」のだろうか。
きわめて貴重な資料、だが上演台本にはどうか
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かつて、おそまつな海賊版とみられていた『第1クォート・ハムレット』(=Q1)は、最近の研究では、現行ハムレットが作られる過程を示す「原型」とみなされている。私の手元にあるArden版の『Hamlet』(2006)では、膨大な脚注も付録も煩わしいほど詳細にQ1との関連に触れている。成立史的には、Q1はそれほど重要なテクストなのだ。安西氏の邦訳は、貴重なお仕事であると同時に、シェイクスピア・ファンには福音である。現行版ハムレットは長すぎるので、あちこちカットして上演されるのが普通だが、Q1は分量が6割しかないので、その点でも注目されている。だが、邦訳を通読して感じたのは、ハムレットに特徴的なあの輝くばかりの科白が乏しいことである。たとえば、劇中劇で動揺した王クローディアスの祈り。(Q1)「どうやって天に祈ればよいというのか。ええい、ひざまずけ。膝を折って、神のお慈悲を乞い求めるのだ。さもなければ、絶望しかないのではないか」は、現行版では「助けたまえ、天使よ! やってみよう。曲がれ、頑ななひざよ。そして、鋼のような心よ、生まれたての赤子のように柔らかくなれ。それですべてうまくいく。」(河合祥一郎訳、角川文庫) ハムレットの死の場面では、(Q1)「さらばだ、ホレイショ。天よ、わが魂を、迎えたまえ。(死ぬ)」/(現行版)「ああ、もう死ぬぞ、ホレイシオ。・・・彼[=フォーティンブラス]に伝えてくれ、これまでに起こった事の顛末を。――あとは、沈黙。(死ぬ)」 そして続くホレイシオの「気高いお心が砕けてしまった。おやすみなさい、優しい王子様。天使たちの歌声を聞きながらお眠りなさい。」が、Q1にはまったく無い。このホレイシオの素晴らしい科白が欠けた『ハムレット』など考えられるだろうか? シェイクスピアはQ1を元に、科白を練りに練ったのだ。やはり長くなっただけのことはある。