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マクベス (光文社古典新訳文庫)

価格: ¥540
カテゴリ: 文庫
ブランド: 光文社
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陰欝なる裏切りの物語 ★★★★★
スコットランドの将軍、誉れ高きマクベスのもとに現れたのは3人の魔女。彼女らが彼に授けたのは、「やがては王様になる」という不吉ながらも魅惑的な予言であった。王の従順なる配下であったはずのマクベスは、こう唆されたのをきっかけに道を踏み外し…。

シェイクスピアの4大悲劇のひとつを飾るその名も『マクベス』は、人間誰しもの奥底で隙あらば膨張し最後には宿主の命さえをも奪ってしまう名誉欲や虚栄心という名の悪魔の実の姿を描き出す。戦時には勇猛果敢なはずのマクベスも大逆の罪を前にすれば、縮み上がってしまう従順な下僕だったはず。しかし、王をその手にかけ、いざ王座につくやその姿は一変。権謀術策で側近や友さえも闇夜に乗じて葬ってしまう大胆さを身につけるのである。そう、マクベス夫人がその手を何度もすすいだとおり、一度汚した手は二度と清いものには帰らないのだ。

この光文社古典新訳文庫のシェイクスピアシリーズを訳してきた安西徹雄は、実は2008年5月にこの刊の出版を待たずに亡くなっている。この『マクベス』はだから、そんな氏の遺作ならぬ「遺訳」になるのかもしれない。第二幕二場以降の朱入れは、彼の教え子にあたる小林章夫氏が解題とともに務めている。

また本書最後尾には、「演劇集団 円」で氏とも仕事をした経験のある俳優の橋爪功が言葉を寄せている。氏が生前どれほどシェイクスピア演劇に情熱を注いでいたか、普段の氏の天真爛漫な性格、旅公演先での氏のはしゃぎっぷり、そうした橋爪による氏についての述懐からは、二人の気のおけない間柄がすけて見えてくるようで、それもまた泣ける。
「ヘェェェイ、マクベース!」 ★★★★★
「ヘェェェイ、マクベース!」
この訳が素晴らしいと思いましたね。
角川文庫のマクベスは、この部分を「万歳、マクベス!」と訳してます。
岩波文庫(笑)のマクベスは知りません。

マクベスと言えば黒澤明の「蜘蛛巣城」です。
あの映画は、マクベスを元に作られています。
私も「蜘蛛巣城」を調べて、それを知りました。

そして私は、光文社のマクベスより、角川のマクベスを先に読みました。
なぜならば、角川のマクベスは、かなり読みやすい訳になっているからです。
ただし、読みやすい訳文になっているので、多くの部分が省略されています。
そこで、光文社のマクベスを、今回、読ませていただきました。
これが、悲劇? ★★★★★
 これが、悲劇?
 私は、演劇にも、落語にも疎いのだけれども、この作品を悲劇としては、読めなかった。落語のように読んだ。
 こんな言葉は存在しないであろうが、マクベス、という人物は、〈意識せざる道化〉である、と私の目には映った。
 魔女の予言は、ラストで解き明かされるが、これが、なんだか、私には落語のオチみたいに思えたのだ。なんだい、マクベスって、間抜けだなあ、と自身はマクベスよりもはるかに間抜けなのだが、なんだか、そんな風に思ったのだ。落語のオチのようなラストが待っているからか、訳文が、落語みたいだ。とくに、風変りな門番の台詞、その節回しが、よかった。
 また、とんちんかんなことを書いてしまった。おそまつさまでした。
音読したくなるリズミカルな戯曲 ★★★★★
英文学者で演出家の安西徹雄氏の最後の翻訳です。

マクベスの物語自体は、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」として翻案されるなど、有名なシェイクスピアの4大悲劇の一つです。
三人の魔女に呼びかけられ、王になると予言された小心者のマクベスと、その尻を叩いて血塗られた栄達の道に突き進ませるその妻。二人はダンカン王を暗殺し、まんまと王位に就くのですが、様々な幻影に悩まされ滅びてゆきます。

その物語もさることながら、翻訳が素晴らしいのでしょう。実にリズミカルな戯曲になっています。声を出して読みたくなるのは、私だけではないでしょう。

非常に短い作品で、内容は極めて深刻な悲劇なのですが、読んでいて楽しい作品になっています。
新たな可能性 ★★★★★
安西徹雄氏の遺作です。最後まで挑戦心に溢れていた訳者・演出家であったと思います。「解題」(211頁)によると、冒頭の一幕一場の魔女たちの“Fair is foul, and foul is fair”という台詞は当初「きれいは きたない、きたないは きれい」と訳されていたそうです。しかし、初校の著者校では「晴々しいなら 禍々しい、禍々しいなら 晴々しい」と訂正されており、これが採用されました。多少言いづらく、「きれいは きたない」と比べてどこか歯切れが悪くなったような感じがします。しかし、よく知られた「きれい」=「きたない」という動かしがたい等号の関係が崩れています。この条件の形になった結果、「晴々しくないなら ・・・」そして「禍々しくないなら・・・」と新たな思考の余地、あるいは思考の可能性といったものが生まれたように思われます。「きれいは きたない」という断定的なワン・フレーズを退けたことで、我々は別の可能性の存在を探ることができるようなったと思います。
陰欝なる裏切りの物語 ★★★★★
スコットランドの将軍、誉れ高きマクベスのもとに現れたのは3人の魔女。彼女らが彼に授けたのは、「やがては王様になる」という不吉ながらも魅惑的な予言であった。王の従順なる配下であったはずのマクベスは、こう唆されたのをきっかけに道を踏み外し…。

シェイクスピアの4大悲劇のひとつを飾るその名も『マクベス』は、人間誰しもの奥底で隙あらば膨張し最後には宿主の命さえをも奪ってしまう名誉欲や虚栄心という名の悪魔の実の姿を描き出す。戦時には勇猛果敢なはずのマクベスも大逆の罪を前にすれば、縮み上がってしまう従順な下僕だったはず。しかし、王をその手にかけ、いざ王座につくやその姿は一変。権謀術策で側近や友さえも闇夜に乗じて葬ってしまう大胆さを身につけるのである。そう、マクベス夫人がその手を何度もすすいだとおり、一度汚した手は二度と清いものには帰らないのだ。

この光文社古典新訳文庫のシェイクスピアシリーズを訳してきた安西徹雄は、実は2008年5月にこの刊の出版を待たずに亡くなっている。この『マクベス』はだから、そんな氏の遺作ならぬ「遺訳」になるのかもしれない。第二幕二場以降の朱入れは、彼の教え子にあたる小林章夫氏が解題とともに務めている。

また本書最後尾には、「演劇集団 円」で氏とも仕事をした経験のある俳優の橋爪功が言葉を寄せている。氏が生前どれほどシェイクスピア演劇に情熱を注いでいたか、普段の氏の天真爛漫な性格、旅公演先での氏のはしゃぎっぷり、そうした橋爪による氏についての述懐からは、二人の気のおけない間柄がすけて見えてくるようで、それもまた泣ける。
「ヘェェェイ、マクベース!」 ★★★★★
「ヘェェェイ、マクベース!」
この訳が素晴らしいと思いましたね。
角川文庫のマクベスは、この部分を「万歳、マクベス!」と訳してます。
岩波文庫(笑)のマクベスは知りません。

マクベスと言えば黒澤明の「蜘蛛巣城」です。
あの映画は、マクベスを元に作られています。
私も「蜘蛛巣城」を調べて、それを知りました。

そして私は、光文社のマクベスより、角川のマクベスを先に読みました。
なぜならば、角川のマクベスは、かなり読みやすい訳になっているからです。
ただし、読みやすい訳文になっているので、多くの部分が省略されています。
そこで、光文社のマクベスを、今回、読ませていただきました。
これが、悲劇? ★★★★★
 これが、悲劇?
 私は、演劇にも、落語にも疎いのだけれども、この作品を悲劇としては、読めなかった。落語のように読んだ。
 こんな言葉は存在しないであろうが、マクベス、という人物は、〈意識せざる道化〉である、と私の目には映った。
 魔女の予言は、ラストで解き明かされるが、これが、なんだか、私には落語のオチみたいに思えたのだ。なんだい、マクベスって、間抜けだなあ、と自身はマクベスよりもはるかに間抜けなのだが、なんだか、そんな風に思ったのだ。落語のオチのようなラストが待っているからか、訳文が、落語みたいだ。とくに、風変りな門番の台詞、その節回しが、よかった。
 また、とんちんかんなことを書いてしまった。おそまつさまでした。
音読したくなるリズミカルな戯曲 ★★★★★
英文学者で演出家の安西徹雄氏の最後の翻訳です。

マクベスの物語自体は、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」として翻案されるなど、有名なシェイクスピアの4大悲劇の一つです。
三人の魔女に呼びかけられ、王になると予言された小心者のマクベスと、その尻を叩いて血塗られた栄達の道に突き進ませるその妻。二人はダンカン王を暗殺し、まんまと王位に就くのですが、様々な幻影に悩まされ滅びてゆきます。

その物語もさることながら、翻訳が素晴らしいのでしょう。実にリズミカルな戯曲になっています。声を出して読みたくなるのは、私だけではないでしょう。

非常に短い作品で、内容は極めて深刻な悲劇なのですが、読んでいて楽しい作品になっています。
新たな可能性 ★★★★★
安西徹雄氏の遺作です。最後まで挑戦心に溢れていた訳者・演出家であったと思います。「解題」(211頁)によると、冒頭の一幕一場の魔女たちの“Fair is foul, and foul is fair”という台詞は当初「きれいは きたない、きたないは きれい」と訳されていたそうです。しかし、初校の著者校では「晴々しいなら 禍々しい、禍々しいなら 晴々しい」と訂正されており、これが採用されました。多少言いづらく、「きれいは きたない」と比べてどこか歯切れが悪くなったような感じがします。しかし、よく知られた「きれい」=「きたない」という動かしがたい等号の関係が崩れています。この条件の形になった結果、「晴々しくないなら ・・・」そして「禍々しくないなら・・・」と新たな思考の余地、あるいは思考の可能性といったものが生まれたように思われます。「きれいは きたない」という断定的なワン・フレーズを退けたことで、我々は別の可能性の存在を探ることができるようなったと思います。