敗戦・占領研究の原点となったプリンストン滞在記
★★★★★
江藤淳氏は1962年(昭和37年)から2年間、1年間はロックフェラー財団研究員として、次の1年間は日本文学の講師としてプリンストン大学で過した。本書の「Tアメリカと私」は帰国後の昭和39年に「朝日ジャーナル」に掲載されたが、「Uアメリカ通信」は米国から日本の新聞に送ったものが初出である。小生はこの時代に学生時代を送った。思うに、江藤氏との出会いは「朝日ジャーナル」の「アメリカと私」であったようだ。その後、平成11年に自裁するまで長い読者となった。
江藤氏のプリンストン滞在時は、公民権運動が激しくキューバ危機、そしてケネディ暗殺などが起こり、米国の激動の時期であった。氏は、米国とはなにか、そして敗戦の結果、日本は何を得て何を失ったかを改めて問う。
米国は建国以来わずか180数年の若い移民国家でありながら確固たる伝統をもつ。それは民主主義の別名でもある『アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ』であり、米国への移民順にアングサクソンを頂点にしたヒエラルキーを作る。そして英語という言語を媒介に出自を問わず人を米国人にする。一方、戦後の日本は。国家であることをためらっている国家であり、民族の特性を消去することに懸命になっている民族にみえた。それから半世紀近くになるが、江藤氏の希望とは異なり、むしろその傾向も強まっているのではないか。個人と国家をつなぐものはなにか? それは記紀・万葉集以来の日本語である。
30歳という若い江藤氏の「なにか必死さ」を感じさせるプリンストン滞在記。後の『閉された言語空間−占領軍の検閲と戦後日本』執筆の契機ともなった歴史的名著である。
尚、本書には詳細な江藤氏の年譜と著書目録が付いていて親切である。
適者生存
★★★★☆
著者はアメリカに来て、日本にあったつながりがいったんリセットされ社会的にゼロになったことを感じたが、抜群の知力でもって、現地の人に自分の価値を認めさせ(たとえば学会発表での好評)、自分の場所をつくることに成功した(1年目はロックフェラーの奨学金生活、2年目は大学からの給与生活)。アメリカとの激しい格闘や葛藤がでてこないが、故意に書かなかったのでなければ、アメリカが、著者における日本からはみだした部分をうけいれてくれる場所として、心地よかったからのようだ(といっても、一時帰国したときに自分の外面がアメリカ人風の振る舞いになっていることに気がつき、恐怖を感じたという。「はみだしていない部分」においては当然日本人なわけである)。
本書から受ける印象だけをたよりにする限り、適者生存の場であるアメリカは、力ある著者にとっての葛藤の対象ではなく、自分の場所のようにみえる。とくに2年目から完全に教師として彼らに「与える」側にたちえており、そこには余裕すらみられる。だから本書では「奮闘」が語られることは少なく(めだつのは最初に、支給金を上げるようロックフェラー財団にかけあったところぐらいだ)、どちらかというとアメリカ的なものをいくらか内在化させたものとして冷静な目で、アメリカを眺めているような趣がある。
著者自身はアメリカ社会にくいこんでいけた側だが、くいこめない人々についても、自身のアメリカでの交友関係を題材に多く語り、現実的で残酷な差別社会の構造を照らし出している。通時的な記述はともすればダレがちだが、本書の場合、そこに織り込まれる考察がつぼをついたものであり、興味深く読み進められる。1960年代初頭の本だが、今読んでも目を開かせられるものがある。
(ちなみに『現代の文学27 江藤淳』(講談社、1972)にて読んだがレビューはここで。)
江藤淳と小田実
★★★★☆
60年代初頭のアメリカ体験記である本書は、明らかに、小田実の「何でもみてやろう」を意識して書かれている。安保闘争に参加せず、フルブライト奨学生としてアメリカに赴き、世界を放浪し、在野の文人として「難死」を説くベトナム反戦運動の闘士になっていく小田。安保闘争に参加し、大学を追われ、在野の身分でアメリカに赴き、文芸評論家として保守派の論客になっていく江藤。ともに「ナショナル」を課題としつつも、好対照な道を歩んだ二人である。本書の冒頭で江藤は、小田のことを「おりた」人間だとやや侮蔑的にいい、かつ、エスタブリッシュとして鳥瞰的にアメリカを描くことを拒否している。本人が思っている以上に、本書は自意識過剰の書であり、(あとがきで加藤展洋がいっているように)「イヤミ」な書である。ただ、アメリカにも、そして現在日本にも違和感をもつという居場所のなさからの執拗なアメリカ観察が、独特の論点を紡ぎ出していることも事実である。アメリカへの違和感が、戦後日本への違和感へと直結していくその後の江藤の仕事の出発点がここにある。ともに「反」米を志すことになった江藤と小田。二人の軌跡を念頭におきながら本書を読むと、実に興味深いのだ。
硬くて軟らかいもの
★★★★★
小説にしても随筆にしても、内容・文体ともに軟らかいものを読み続けると「硬質」なものが読みたくなる。ただし、硬ければ硬いほどよいと言うことはなく、削れる程度に軟らくないと、歯が立たない。
そんな事を思いながら、「久しぶりに江藤淳のものが読みたい」と思っていた矢先に出版されたのが本書であった。『漱石とその時代』以来、江藤淳はだいぶ読んだが、『アメリカと私』だけは今まで拾い読みしただけだった。
本書を通読してみて、江藤の米国滞在と、漱石の英国滞在の様相が全く異なっているのに、改めて驚いた。時代も違えば、国も違う。そう言ってしまえばそれまでだが、江藤の場合は「妻帯」であった事が大きく影響しているのではないか。
異国で一人というのは矢張りつらい。愚妻(通説に従えば)であろうとなかろうと、
漱石がロンドン滞在に妻を連れて行っていたらどうなっていたか。また逆に江藤淳が単身であったらどうなっていたか。本書を読み終えて、こんな事を漠然と考えている。
おもしろい内容だが、かといって
★★★☆☆
文庫本にすべき、おもしろい内容だが、かといって世紀の傑作エッセイかと言えば無論そんなことはない。
江藤はその処女作「夏目漱石」が一番おもしろく、歳をとるにつれてダメになった文芸評論家だが、最後は妻の後追い自殺に終わるその哀れな生涯は漱石の哀れさを想起させる。