対症療法としてのブルマー廃止
★★★☆☆
ブルマーに関する議論ほど賛否両論、男と女でまっぷたつに見解が分かれる話題も珍しい。それだけに、中立的な視点が持ちにくいともいえる。
その意味で「戦後史」を扱う第四章だけは他の章に比べて中立性を欠き、どうも廃止の正当性を証明するだけに終始しているような印象がある。ピッタリ型に移行した当初から不満・反発の声が圧倒的多数だった証拠をデータで示すくらいなら、それにもかかわらず30年近くも強制した学校教育の責任を問うべきだと思う。ちなみに、仮に男子の側が同様の不満・反発の声をあげたとしたらどうか。おそらく「男の掟」を口実に、我慢が足りないなどとの理屈で押し切られたに違いない。
また忌避理由についても、羞恥心や強制力によるとの声を挙げているが、前者であれば(学校教育とは無関係だが)ビキニ水着を発売中止とし、後者であれば制服自体を廃止するくらいでなければ、片手落ちであろう。
もちろんブルマーの導入・改良過程も女生徒への体育振興における服装改良であったのだが、その最終的な進化形態に対しても「女性性」のイメージでしか見ないほど、男の性欲は罪作りなものである。それは廃止によって沈静化するどころかさらに悪質化し、このため少女を狙った犯罪事件もそれ以前に増して多発するようになった。これでは何の解決にもならない。
やはり、諸悪の根源は(ロリータ・フェティシズムといった不健全な形での)性の解放そのものにあろう。廃止の直接的な引き金となったブルセラ騒動にしても、ブルマーを忌避する一方、女性性の商品化自体は肯定するという、いびつな形の自己決定権がその根底にある。そうした根本的なところを無視・放置して、単に廃止するだけで「改善」とするかのような第四章の論調は、少し不満だった。
小難しいまじめな本です。
★★★★★
1946~70年生まれの5人の男女の社会学者・体育史家による2005年刊行の250頁程の本。近世以来、女性は男性と区別され、家の中でおしとやかに家事を行なうことが望まれた。その結果、女性の服は機能性を軽視する形状になっていた。明治以降、女学生の体育が問題化されてから、こうした女性観・女性服のあり方が再検討されていく。男女観の揺らぎを伴いながら、明治後期の女袴から大正期のくくり袴へ、更に洋装の浸透や女性スポーツの競技化と共に、セーラー服&スカート・ショートパンツへの転換が生ずる。続いて、戦後の民主化の中で男女共学化にもかかわらず男女別修体育が導入されたことにより、ブルマーが本格的に学校に導入される素地が整った。1970年代中頃までは、紺のちょうちんブルマーと白のショートパンツが主流であったが、機能性の追求、化学繊維・生理用品の開発の結果、1960年代以降、伸縮性のあるぴったり化学繊維ブルマーが徐々に学校体育着の王者の地位を獲得してゆく。しかしこれは機能的である反面、足が出る、下着が出る、体の線が出る、といった点で、女子には不満も多いものであり、学校が安価にまとめ買いすることによって維持されていたものであった。このように女子体育着は機能性・開放性を追求する中で、男性からの性的視線をも集め、女子に羞恥心を喚起し、上着の裾を伸ばす、ジャージをはく等の防衛策をとらせることになる。やがて1980年代に、高度成長の終焉の結果である脱規律化された「楽しい体育」への転換、服装のユニ・セックス化、性の商品化と自己決定権の強調が生じると、ブルマーの性的意味合いが顕在化し、1990年代、女子中・高生の性行動の当然化、近代家族観の揺らぎ、ブルセラ・ブーム等の中で、ついにブルマーは急速に学校から排除されることになる。