インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

ブルマーはなぜ消えたのか―セクハラと心の傷の文化を問う

価格: ¥1,365
カテゴリ: 単行本
ブランド: 春風社
Amazon.co.jpで確認
この作品は凄い! ★★★★★
 著者中島聡を侮ってはいけない。精神科医として、いや精神病理学者としての彼の透徹した思考に触れて欲しい(例えば「分裂病の実践知と治療」)。この作品は、激しくも痛々しいほどに現象学的思考を貫いた俊才中嶋の、精神科業界を越えた新たなる挑戦である。
私憤に根ざしたへ理屈 ★★☆☆☆
 色々とご託宣を並べて見せていても、著者の根底にあるものは、男の側に「甘酸っぱいときめき」と「ほどほどのエロス」をもたらしてくれた辺縁が失われたことへの私憤でしかない。
 その心情については理解できなくもないが「精神的な傷」に対して、あまりにも鈍感な語り口では、読者の中に敵を作ることになりかねない。
 また「辺縁」そのものも、それが有害無益な影響しかもたらさないなら、すべからく無くさねばなるまい。さすがに禁煙運動はいき過ぎだが、例えば社員旅行などに代表される職場での公私混同については、それが日本社会のしばりつけを強化・維持する働きがあるだけに、ないほうがいい。またセクハラについて「嫌なら断ればいい」というが、それでもやめないほどセクハラ男はずうずうしいのだ。
 そもそも犯罪のような反社会的要素ほど、被害者の立場はないがしろにされている。それなのに被害者主体のほうを「被害者帝国主義」として否定するのは、本末転倒であろう。元々一神教的な「罪の意識」を持たない日本の社会では「恥の意識」でしか行動を律せず、近年ではそれすら失われつつある以上、被害者の視点に立った論拠は非常に大切なものと思われる。
 一方で、専門家主体を「インフォームド・コンセント」への反論として主張する。これをブルマーに当てはめるなら「採用するしないは教育の専門家である学校側に一任すべし」とのことなのだろうが、日教組・文部官僚の双方が、今村城太郎氏のいう「心を育てない教育」を断行したことにより、学校教育そのものが信用を失ったという事実を忘れてはいけない。
 それにしても「専門家主体」を主張する対症療法的な視座で、これまた対症療法にすぎないブルマー廃止を批判するあたり、滑稽ですらある。
独善的で不愉快な内容 ★☆☆☆☆
被害を被った側の視点に配慮がなさすぎ。この著者のような考えは極めて独善的で、
現代の加害者側の人権擁護という不条理な世相を思わせる危険なものである。
ブルマーを象徴的に挙げている点も気持ち悪い。
個人権利主張の趨勢への論駁 ★★★☆☆
 「本書を書き終えた今、自分が長年抱きつづけてきたもやもやとした感覚を言葉にした満足感に満たされている」と後書きの冒頭にあるのが、本書の本質を表わしている。
 正直に言えば私は「ブルマー」という単語を理解していなかった。昭和20年代の自分の小中高時代、女生徒が着用していたダブダブの、今は「ちょうちんブルマー」と言うらしいものをブルマーと理解していて、ショーツのようなのはブルマーとは言わないのだろうと思っていたから、Webを漁って間違いに気付くまで筆者のブルマーへの憧れが理解できなかった。だから書評が理解できず、それが悔しくて本書を買った。
 一部の女生徒がショーツ型を恥ずかしがるために、消えてしまったのは残念なだけでなく行き過ぎだと断じる。性同一性障害、セクハラ、タバコなど、いずれをとっても一部の人の我侭な被害者意識に基づく個人の権利主張が社会的過剰反応を惹き起こしていると、社会の趨勢に反論を振りかざしている。
 私は筆者の考えに賛同できないが、そういう議論はあっていい。
発想自体が勘違い ★☆☆☆☆
もともと女子学生の体操着は男性に「甘酸っぱさ」だの「ときめき」だのを感じさせるために存在したのではありません。
女子学生が羞恥心を感じることなく、思いのままに運動することができるようにブルマーは消えたのです。
私は、かつて、ブルマーを穿いて体育の授業を受けた世代ですが、
思春期のころに、男性からのこんな視線を向けられること自体、いやだったのを覚えています。

この著者がおっしゃっていることは、自分(男性の立場)のことしか考えていませんね。