セームセーム・バット・ディッファレン
価格: ¥0
『ずっと、このまま ”いい人” でいれば人生失敗せずに済むのかなって』
”いい人”ということだけが取り柄の大学生、ユウは、『いい人だから』という理由で彼女に振られ、自我と共に、今まで見えていた世界が一気に崩壊する。
そこに一瞬垣間見えた世界の外側を探しに、ユウは旅の計画を立てる。そんな彼に旅慣れた保阪先輩はカンボジアを薦めた。
南国の甘い熱気と清潔な空の下、ユウの前に現れる美人バックパッカー、ジュリ。二人はひょんなことから意気投合し、一緒に遺跡巡りをすることになる。
ジュリに急速に惹かれていくユウ。しかし、二人が泊まるゲストハウスには、ジュリの知り合いのイケメンバックパッカー、コウスケさんが現れる。
カンボジアを舞台にした、明るく、切ない青春小説。著者KDPデヴュー作!
*今後本作で無料キャンペーンを行うことはありません。
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機体が強烈に揺れてあちこちから悲鳴が起き、「ああ落ちる、死ぬ!」と目を瞑(つむ)った瞬間、股の間に湿り気を感じて、終わったなと脱力した。
「ア、ゴ、ゴメンナサイ!」
「え?」
窓側の席に座っている中国人風の女の子が、カップを手にしたままおろおろしている。飛行機は揺れながらもなんとか飛んでいて、僕は色んな意味でほっとした。
「ああ、えっと、大丈夫……」
前の席の背中についているポケットからティッシュを取り出して、ジーンズに広がった沁みを申し訳程度に拭き取った。
無言で作業する僕が怒っていると思ったのだろう、女の子は再度、「ゴメンナサイ、あの……おカネ、払いますから」と、たどたどしい日本語で呟いた。
「大丈夫、大丈夫! 中までは沁みてないから。気にしないで」
とりあえず彼女を安心させるため、目を見て、笑顔でそう返した(本当は中までしっかり沁みて強烈に不快だったけど)。
ちゃんと見ると、色が白く、目が厚ぼったくて可愛い。女の子は少しだけほっとしたようだ。
やがて小刻みな揺れも収まり、ベルト着用のサインが消えて、僕は中まで拭くためにトイレへと向かった。前からは好奇の視線を股に、後ろからは心配の視線を背中に感じながら。
「ホントに、ゴメンナサイ、だいじょぶ、ですカ?」
席に戻ると、女の子はまた、たどたどしい日本語で謝ってきた。まだ少し怯えた様子で、僕はかえって悪いなと感じ、改めて笑顔で問題ないことを告げた。彼女は続けて、
「えと……もし、Shanghaiにクルでしたら、ワタシ、お礼します」
〝上海〟だけやたら発音がいいことに、変に関心した。やっぱり中国人みたいだ。
「お礼? ああ、『お詫び』ってこと?」
彼女はそうそうと、小刻みに顔を縦に振る。
「いいよ、本当に、なんでもないし。それに、行くの上海じゃなくて、カンボジアだから」
「カンボジア!」
「そう、カンボジア」
「でも、ヒトリ? 危なくない?」
心配そうな顔つきに、ぐっときた。僕は自信満々に、
「全然、今はもう治安も安定しているし、衛生状態もよくなってるから、普通の観光と同じだよ」
と、事前に集めた情報をそのまま伝えた。すると彼女の眼差しが、心配から尊敬に変わった。
それとは逆に、僕の心は急速に不安で満たされる。本当に、一人でカンボジアを旅して大丈夫なのだろうか?……
変な間が空いたので、僕は不安を振り切るように彼女に訊ねた。
「あの、お名前は?」
「メイ、トトロと同じデス」
「あ~」と頷きながら笑うと、彼女は満足そうにした。こう言えば日本人受けするということを知っているんだろう。
「僕は、ユウ。『優しい』のユウ」
「名前とイッショ、やさしいデス」
メイはそう言って口をすぼめたまま微笑んだ。
そこから、お互いのことを話した。僕は大学二年で、都内に一人暮らし、彼女とは半年前に別れた、海外旅行は初めて、バイトはスタバ、好きなアニメは『エヴァンゲリオン』(本当は『けいおん』だけど)。
メイは十九歳、去年から出稼ぎに来ていて、横浜在住、日本語を勉強しながら働いている、宮崎アニメは初期の方が好き、彼氏はいない、夢は両親に家を買ってあげること……。
仕事の内容はメイからは言わなかった。水商売かもと思って、当たっていたらちょっとショックだから、詳しくは訊かなかった。
自己紹介がてらの雑談を一通り済ませたところで、まもなく上海到着のアナウンスが流れた。
退屈しているときほど時間が長く、楽しいときほど短く感じられるという脳の意地悪な構造を僕は恨んだ。
楽しいときは、時間はもっと間延びするべきだ。
機体は無事着陸し、僕はもう少しメイと話したくて、〝荷物降ろし競争〟に半ばわざと出遅れた。
エコノミーの狭い通路は瞬く間に人で埋まり、メイを見ると、彼女は西洋人のように肩を窄めた。おどけたしぐさが可愛かった。
「ゴメンナサイ、中国人、いそがしいデス」
「ううん、全然、急いでないし。荷物降ろすからどれか教えて……って、みんな行ってからじゃないと無理だね」
「アリガトウ」
メイはそう言って微笑んだ。僕はまた急速に心が冷めていくのを感じた。
二度と会わないであろう中国人の女の子にさえ、全速力で『いい人ランキング』上位に駆け上がろうと必死な自分。
ずっとこのまま、〝いい人〟でいさえすれば、何もかもうまくいく。ほんの少し前までは、本気でそう信じていた。
「ユウ……さん?」
「え? あれ? ああ、ゴメン!」
メイの言葉で我にかえって通路が空いていることに気づき、僕は慌てて立ち上がった。
結局、彼女とはアドレスも交換せず、謝罪やら、お礼やら、励ましやらの言葉を交わして分かれた。
少し寂しかったけど、幸先の良い出会いに旅の充実を予感した。
それから、レストランやパブ、各種ショップには目もくれず、次の搭乗口へと直行した。
搭乗口付近の椅子に座り、バックパックを隣の席に置いて、時間を確認した。
あと三時間弱は待たなければいけない。あちこちから聞こえる、怒鳴りあいのような中国語の会話をBGMに、僕は慣れない思索に耽ることにした。
「カンボジアっすか?」
「おう、面白ぇぞ。安いし」
保坂先輩はそう言って勢いよくビールを呷った。
僕はこの旅慣れた――といっても、直接旅の話を聞いたことは今までになかったけど――先輩に、春休み一人でどっか旅行に行きたいんすよね、できれば海外に、と相談を持ちかけると、そのまま激安居酒屋に連行されたのだった。
先輩のジョッキにはまだビールが残っていたけど、心配なのか、テーブル脇のタッチパネルを慣れた手つきで操作し、追加を注文した。
一旦手を離してから、思い出したように、
「あぁ、お前、何かいる?」
「そうですね、おつまみ、枝豆以外で何か」
言わなければ保坂先輩は、際限なく枝豆を注文する。操作が終わるのを確認し、僕は改めて問い直した。
「でも、カンボジアって、究極じゃないですか? 地雷を踏んだらサヨウナラって感じ……」
保坂先輩はじろっと僕を見て、不敵に口角を上げた。
「お前もTVにやられてんな。地雷に貧困に、ストリートチルドレン、学校や、井戸さえない村、あげくにチャイルド・セックスってか」
枝豆を職人的な手捌きで剥きながら、
「あんなのはずっとずっと前のハ・ナ・シ。今はもう普通の、ちょっと貧しい観光地だよ。
観光しにいって地雷踏むなんてあり得ねぇし、インフラはずいぶん整備されてきている、まあ、貧しいっちゃ貧しいけど、俺ら目線で見るからであって、現地人にしちゃあ右肩上がりさ。
それに、悪名高いチャイルド・セックスも今は闇の闇、ロリコン紳士たちはとっくによその国に鞍替えしてるよ」
ビールと枝豆、唐揚げが来た。僕は終わった皿を店員に渡し、テーブルをお絞りでさっと拭いた。
「でも、治安とか大丈夫なんですか? 伝染病とかも」
「変な時間に変なとこに行かなきゃ問題ねぇよ。日本が安全つっても夜中二時に歌舞伎町うろうろしてたらヤバいだろ?
まあ、そんなとこだ。あとは、水道水と生ものは控える、調子こいて川で泳がない、女買うならゴムは必ず付ける、それだけ気をつけてりゃ十分!」
僕の中のカンボジアのイメージが一瞬で崩壊した。それまでは、一般的な日本人と一緒で、マイナスイメージしか持っていなかった。
もし行くとしたらボランティアで、それなりに覚悟を決めて。
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著者略歴
八幡謙介
京都生まれ、ギター講師。中学生の頃よりギターと本に親しむ。
2003年バークリー音楽大学卒業。アメリカ東海岸での音楽活動を経て、渡欧。ハンブルグ、アムステルダムなどに滞在し、音楽修行の後、2004年帰国。
滋賀県でギター教室を営む傍ら、演奏活動を行う。2009年より、これまでにない斬新な視点のギター教則本を次々と発表。
2011年、横浜に移住し、八幡謙介ギター教室を開講。2012年より小説の執筆を開始。
ブログ「自作解題」 http://k-yahata.hatenablog.com/
ツイッター @kensukeyahata