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精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200))

価格: ¥1,596
カテゴリ: 新書
ブランド: 平凡社
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原語に沿って読める訳 ★★★★★
 Felix Meiner版とかも持っているけど、楽なので河出書房以来の樫山先生のこの訳に頼ってしまう。先生自身の思い込みはともかく、訳については意訳が少なく良心的で、精神編とかも、似て異なる「法哲学」とか「歴史哲学」とかに引きずられずに読むことも可能ではないかと思う。スピノザの実体やカントの自我の先験的統一をも突破し、「大論理学」と同様精神史上空前絶後まで辿り着いたこの労作を、適切な邦文で読める幸せは、学恩と出版社のご尽力の賜物だと思う。
意識が自分自身を吟味し、悩み、解体し、形成していくクロニクル ★★★★★
 ヘーゲルが1807年発表した著作。カントの三大批判書の完成から20年弱、基本的にカントの成し遂げた業績の上に立ちながら、カントがなしえなかった積極的な哲学体系がここで展開されているように読める。

 カントの三大批判書が理性に関わる領域設定を主たる内容にしていて、空間的・地理的な叙述だったのに比べ、ヘーゲルのこの著作は、感覚的な確信を抱くに過ぎない意識が自己自身を吟味し、ゆるぎない確信へ、真理へ、絶対知へと至る過程を詳細に記述した、時間的・歴史的な性質の強いものであることは、両者を比べて読んでいくととても如実な違いとして思い浮かんでくる。また、論述の構成としては、カントではひとつの結論に向かって何度も繰り返して接近し、離れ、また近づいていく螺旋状の記述によって事物を明らかにしていくのに対して、ヘーゲルでは感覚的確信から始めて絶対知に至るまで、高低差や方向の変更がありながらも、一筋の道をひたすら進んでいくことでその過程の継起的脈絡を明らかにしていく手法が取られている。結局両者とも難解であることに変わりはないが、難解さの質は明らかに違っていて、世代の違いのせいでもあるだろうが 、論者の資質の違いでもあるのだろう。

 ヘーゲルの論述の内容に注目していけば、かなり有名な「弁証法的運動」が意識に起こり、意識の中で新しいはたらきが生まれ出て、それを意識にとらえ返していくという仕組みが繰り返して起こることで意識は段階的に明晰になっていくという筋書きが、上巻いっぱいで展開していく。対立してあるものが他を排除し、解体しようとし、実際に解体したかというときには自分自身も解体してしまっているという洞察、はじめは対立として相互に活性化していた二つのものが対立の度を弱めて不活性になり、一体化してしまったあと、新たに対立構造に呼び込まれ新たなはたらきを生んでいく過程などは、歴史上の出来事や今まで生きてきて見てきた出来事、過ごしてきた日々の思い出を振り返れば、人間関係において当てはまる部分がある。

 また、意識ー自己意識ー理性と段階を踏む意識の自己形成に関わってくる障害の数々の分析のリアルさを思うと、ヘーゲル自身がどれだけ悩みと苦しみを抱えた、業の深い人間であるかにも思いが及ぶ。自分としては、何か元気付けられ、励まされているようにも思えた。

 異様に難解ですが、日々自分について悩み続けている人にとっては理解しやすいのかもしれない一冊。
いまだに色褪せない哲学書 ★★★★☆
 ヘーゲルの、あるひとつの「概念」から別の概念を引き出して
次々と「対象」としてぶつけてしまい、無くしたり増やしたり、
そのときに起こる状態や仕組みを整理しながら、
みごとに自分の考えを流動させていく思索はすばらしいものです。
 精神をどのように運動させて最終的にひとつにおさめれば
他の生きた精神のない学とは違い、精神現象学によって生きる学に、
彼のいう知の生成を実現させられるのか、ぜひ読んで体験してみてください。

 読書手順としては、自己意識→序論→全体の速読→絶対知、
といったように精読を交えて読めば内容が掴みやすいかと思われます。
絶望の道を歩む意識 ★★★★☆
上巻では、序論、緒論、A−意識、B−自己意識、C−理性が収録されています。
意識が「絶望の道」を経ながら、つまり否定に直面しながら、
真の知へと展開していく様子が事細かに叙述されています。

訳文は良い出来だと思います。しかし、ヘーゲル独特の言葉や言い回しに
初めて触れる方は戸惑うかもしれません。
そう簡単にすらすらと読み進めることは困難ですので、
それなりの覚悟と忍耐が要求されると思います。
手ごろな値段で読める古典 ★★★☆☆
やや高めとは言え文庫本2冊で読める「精神現象学」というのは魅力。が、原典のアンチョコとしてはともかく、日本語としての理解は可能か大いに疑問だ。原文を見なければ良く分からないような翻訳に意味があるのだろうか。そうは言っても、立派な哲学者の翻訳でその偉業は素晴らしいし、直訳調(?)の文体が捨てがたい魅力もあって、私個人は、若年の頃苦労しながら読んだ深い思い出の訳書。ことに冒頭の序論とストア派から懐疑論へのくだりは、独特の雰囲気があって捨てがたい魅力がある。この味わいが名訳の長谷川宏訳よりも好ましい場合もあるのだが、しかし、やっぱりついていけるのは「理性」のところまでで、具体的な内容を扱いながら展開される「精神」の章になると、理解に限界をきたす翻訳だと思う。