「身につまされたりする、そんな珍しい哲学書」かどうかは知りませんが
★★★★☆
「『精神現象学』を貫く全体的なモチーフは何だろうか。一言で言えば、それを『自由の
ゆくえ』の問いと呼ぶことができる。……〈共同体から切り離された自由な個人となった
ときに、人は、他者・社会・自己に対してどのような態度をとっていけばいいのか〉――
これこそが『精神現象学』のなかで問われている最大の問いなのだ」。
まさか竹田がそんなことをするわけないよなと察しながらも、このような前書きからして
「世界系/セカイ系」なんて現代風なボキャブラリーに置き換えて説明してみちゃったり
するのかな、と思いつつ読んでみたが、晦渋な用語は驚くほどほぼそのまま、それでいて
「予備知識なしでも『精神現象学』の独自のストーリーを追えるように」との配慮の通り、
確かに相当程度咀嚼されてはいる(他のレヴュアーさんのおっしゃられるように、
これでも難解だと言うのならば、それはすべてヘーゲル自身に由来するものだと思う。
ちなみに、ドイツ語原文は稀代の悪文で、日本語訳の方がはるかにマシな代物)。
本書の帯には「難解な書物がここまでわかった!」と銘打たれてはいるが、「ヘーゲルの
哲学体系では、まず『世界』は神なる『絶対精神』であるという出発点があり、精神は
無限に自己を対象化する自由な運動性という本質をもつ」という弁証法のプロセスなんて
同時代の人間でも「わかっ」ていたことだし、良くも悪くもあらゆるジャンルに対して、弁証法
テンプレートを適用させてしまうのが彼の彼たる所以なわけで、カントによる「理性/感性」、
「現象/物自体」、「定言命法/仮言命法」といった具合の徹底的な二項対立型の
テンプレートへの対案としてヘーゲルが一連の議論をしていて、しかもそこに少なからず
誤読の形跡があることなんて誰の目にも明らかであり、要するに、「わかっ」ていたことは
そのままに、「難解な」要素もほぼそのままに、という入門書らしい入門書である気はする。
蛇足を言えば、日本ではいちいちセットで語られるマルクスはほぼ出てきません。
個人的にヘーゲル最良の入門書と言えば、彼自身による『哲学史講義』における
ヘラクレイトス解説。私の知り合いのヘーゲル屋は「『精神現象学』以外は死ぬほど
簡単」と真顔で言っていたので(私は同意しませんが)、他にも何冊か彼自身のテキストを
読んだ上ではじめて挑まれてみるのがよろしいか、と思う。
やっとヘーゲルの入門書が誕生した
★★★★☆
竹田氏・西氏の前著「完全解読 ヘーゲル『精神現象学』」は、(他の入門書よりはよほど分かり易いのだろうが)まだまだ読みにくさのある本だった。
それは二人も分かっていたようで、さらに読みやすい本書の登場となったという。
今度はさすがに読みやすい。この本でまだ分かりにくいところがあるとすれば、それはもう原著者ヘーゲルのせいだろう(さすがに言い過ぎか?)。ただ、後半部(良心のあたり)が若干駆け足ぎみだったろうか。
ヘーゲルは、人間(意識)が様々な紆余曲折を経て次第に真実(精神)へと近づき、ついには到達するという進歩的な歴史観の持ち主だった。
それは、別の言い方をすれば「様々なものに縛られていた人間がだんだん自由になり、最後は絶対の自由を獲得する過程」である。
こうした進歩は、「それまで正しいと思っていたこと」(知)が「実際そうであること」(真)によって絶えず更新される、という運動の連続によって達成される。
この「だんだん良くなる」というのが、ヘーゲル思想の懐の深さである。
当時、「有限で不完全な存在である人間が本当に真実を知り得るのか」という認識論の問題が哲学における大きな難問だった。
確かに、頼りない人間の理性ががいきなり真実をわしづかみにするというのはちょっと考えにくい。
だから、「絶対に無理」という不可知論や、「(現象界という)限定付きの真理なら可能」というカントの見解に落ち着くことになってしまう。
だが、「いきなり」は無理でも「だんだん」ならどうか。時々壁にぶつかったりちょっと後戻りすることはあっても、長い目でみれば人間は少しずつ真実に近づいているのではないか。
あたかも街道を旅する人間が宿場を一つ一つ通り過ぎていくように、人間は真実への階段を上っていくのである。
とすれば、哲学はそうしたプロセスを描き出す作業だということになる。つまり、哲学はある種の世界史のように記述されるのである。
とはいうものの、彼はヨーロッパという「一地方」が辿ってきた歴史がそのまま「精神が現象する」普遍的プロセスにひとしいと考えていたらしい(ただしそれは、オリエント→ぺルシャ→ギリシャ→ローマといういわば「東から西へ」の歴史でもある)。だから『精神現象学』で描かれる「局面」は、たいていヨーロッパ史のある出来事が想定されている。
それゆえ、ヘーゲルが描いた普遍的な(はずの)運動=進歩のプロセスが、どうも後知恵でつじつまを合わせたもののように感じられてしまう。ヨーロッパ史といういわば偶然の産物を、必然のものとして語っているようなところがあって、その辺りが読んでいて理解しにくいときがある。
思えば、ヘーゲルの思想は一方で「社会の進歩」というマルクス的歴史観を生み出し、もう一方では「歴史の終わり」というポストモダン的頽廃を生んだ。いってみれば、近代をつくったのも終わらせた(と錯覚させた?)のも、共にヘーゲルなのだ。その思想がこれだけ手軽に読めるようになったのは嬉しい限りである(流れ的に、次は『純粋理性批判』の番だろうか)。