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ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

価格: ¥704
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
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一番洗練されたかたちの復讐 ★★★★★
自分が自分でいられるということはどういうことか。ヒトはホントに自分の人生を選び取って生きているのか。
ヒトはある時、「別の」人間になろうとする。だがホントにそれを本人が選び取ってるのだろうか。社会やシステムがキミをキミ以外の何かに変えようしてるのでないか。その葛藤の中でふと寂しい気分になるときはないか。
結局ヒトは自分以外の何者かにはなれない。

キミがキミ自身である唯一の方法が実は「孤独」であると村上は語る。孤独に「なる」のであって、孤独に「させられるのではない」、と。

そのメタファーとして主人公は井戸の中に自ら籠り、述懐し掘り下げ、果ては歴史まで紐解いて壮大なるストーリーを展開する。
果たしてこの行為が無為なことだろうか。「孤独」という行為。

それを経たからこそ、第3部の結末があった。
もし、この行為を経ていなかったら、
「たとえばあなたが捨てちゃおうとした世界
からたとえばあなたが捨てちゃおうと思ったあなた自身から」いつか仕返し
をされてしまう、そう笠原メイは語る。
「孤独」という行為。
それは「ある意味一番洗練されたかたちでの復讐なんだ」
さあ、ねじを巻こう。 ★★★★★

つまり、
自分がいつかは死んでしまうんだとわかっているからこそ、
人は自分がここにこうして生きていることの意味について
真剣に考えないわけにはいかないんじゃないのかな。

そうでしょう?
何が起こるかは誰にもわかんないのよ。
だから私たちが進化するためには、
死というものがどうしても必要なのよ。
私はそう思うな。
死というものの存在が鮮やかで巨大であればあるほど、
私たちは死に物狂いでものを考えるわけ。

自分ではうまくやれた、別の自分になれたと思っていても、
そのうわべの下には、もとのあなたがちゃんといるし、
何かあればそれが、「こんにちは」って顔を出すのよ。
あなたにはそれがわかっていないんじゃない?

だから、きっとあなたは今、その事で仕返しされているのよ。
いろんなものから。
たとえば、あなたが捨てちゃおうとした世界から。
たとえば、あなたが捨てちゃおうと思ったあなた自身から。
私の言っていることわかる?

俺はね、どっちかっていうと現実的な人間なんだ。
この自分の二つの目で納得するまで見たことしか信用しない。
理屈や能書きや計算は、
あるいは、何とか主義やら何とか理論なんてもんは、
大体において自分の目でものを見ることができない人間のためのものだよ。
そして、大抵の世の中の人間は、自分の目でものを見ることができない。
それがどうしてなのかは俺には分からない。
やろうと思えば誰にだってできるはずなんだけどな。

ご存知のように、ここは、
血なまぐさく、暴力的な世界です。
強くなくては生き残ってはいけません。
でもそれと同時に、どんな小さな音も聞き逃さないように
静かに耳を澄ませていることもとても大事なのです。
おわかりになりますか?
良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られるのです。
どうかその事を覚えておいてください。

何もかもが僕の手からこぼれおちて行ったわけではない。
何もかもが闇の中に追いやられてしまったわけではないのだ。
そこにはまだ何か温かく美しく貴重なものが残されている。

あるいは僕は負けるかもしれない。
僕は失われてしまうかもしれない。
どこにも辿りつけないかもしれない。
どれだけ死力を尽くしたところで、
既にすべては取り返しがつかないまでに、
損なわれてしまったのかもしれない。
僕はただ廃墟の灰を虚しくすくっているだけで、
それに気が付いていないのは、僕一人かもしれない。
僕の側に賭ける人間はこのあたりでは誰もいないかもしれない。

「かまわない」
僕は小さな、きっぱりとした声でそこにいる誰かに向って言った。
「少なくともこれだけは言える。僕には待つべきものがあり、探し求めるべきものがある。」

それから、僕は息を殺し、じっと耳を澄ませる。
そしてそこにあるはずの小さな声を聞き取ろうとする。
そこでは、誰かが誰かを呼んでいる。
誰かが誰かを求めている。
声にならない声で。
言葉にならない言葉で。




井戸というメタファー ★★★★☆
頽廃した生活の中で、主人公は井戸に潜み、思索を行う。 隔絶された世界である闇の中に佇む姿は、現実的なものであるにも関わらず、リアリティを伴う事なく描かれています。


「つまり―私は思うんだけれど、自分がいつかは死んでしまうんだとわかっているからこそ、人は自分がここにこうして生きていることの意味について真剣に考えないわけにはいけないんじゃないのかな。だってそうじゃない。いつまでもいつまでも同じようにずるずると生きていけるのなら、誰が生きることについて真剣に考えたりするかしら。そんな必要がどこにあるかしら。もしたとえ仮に真剣に考える必要がそこにあったとしてもよ、『時間はまだまだたっぷりあるんだ。またいつかそのうちに考えればいいや』ってことになるんじゃないかな。でも実際にはそうじゃない。私たちは今、ここでこの瞬間に考えなくちゃいけないのよ。明日の午後私はトラックにはねられて死ぬかもしれない。三日後の朝にねじまき鳥さんは井戸の底で飢え死にしているかもしれない。そうでしょう?何が起こるかは誰にもわかんないのよ。だから私たちが進化するためには、死というものがどうしても必要なのよ。私はそう思うな。死というものの存在が鮮やかで巨大であればあるほど、私たちは死にもの狂いでものを考えるわけ」
きっとまた読み返してしまうだろう ★★★★☆
とにかく長くて難解なストーリーだ。
最後にたどり着くまでに何度も「やれやれ」と思う。
クリーニングに出しておいたワンピースとともに突然姿を消した妻を探し、岡田トオルの果てしない苦闘が始まる。
その妻探しの過程で幾度となく登場し、行く手を阻むのが義兄の綿谷ノボル。
学者にして、その後衆議院議員となる彼はまったくつかみ所がないが、読む者の心の奥になにやら「イヤ」な感じを残し続ける。
家の裏にある路地を抜け、空き家の井戸に降りるところから物語は様々な方面に波及し、つながっていく。

空き家の向かいに住む笠原メイ。
いなくなった猫を探す加納マルタと妹のクレタ。
預言者の本田さんとノモンハンで一緒だった間宮中尉。
謎の事業を行なうナツメグと話すことが出来ないシナモン。
長編かつ展開が複雑であるために、何度読んでもこの物語の主題がわからない。
間宮中尉から送られてくる長い長い手紙は、何を暗示しているのだ。
井戸の中と右頬に出来たアザには何の関係があるのか。
ギターを持った男とバットと綿谷ノボルに何の関係があるのか。
最後にはすべてのツジツマが合うかのように物語は終わる。
そして、読んだ者の心の中にはある種のうまく説明できない違和感が残る。
いつかまた読んでみたら、ふと謎が解けるのではないかと考えてしまう。
何か重要なことを読み落としているのではないか、と不安になる。

こんな気分になるのは村上春樹の作品の中で「ねじまき鳥」だけである。
きっといつかまた読み返してしまう。
物語は続く ★★★★☆
この話、全然終らない。

でも実はこの作品、94年に第2巻まで発売され、2巻のエンドロールには「続」ではなく、「完」が記されていた。つまり、2巻完結の長編小説として世に送り出されたわけだ。

ところが翌年の夏に、予期せぬ形で第3部が刊行された。

「予期せぬ形で」とは言っても、第2部を読了した今思うことは「えっ?これで終わり?謎だらけなんですけどー」って感じだし、続編が刊行されてることは何の違和感もない。

この謎だらけの物語がどう収束するのか、僕は期待に胸を膨らませ、第3部に移る。


最後に第2部で印象に残った文章を記して終ろう。


「加納クレタが僕に向かって微笑みかけたのはそれが初めてだった。彼女が笑うと、歴史が少しだけ正しい方向に向けて進み始めたような気がした。」