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トマスによる福音書 (講談社学術文庫)

価格: ¥1,155
カテゴリ: 文庫
ブランド: 講談社
Amazon.co.jpで確認
読みづらい ★★★☆☆
イエスの福音自体は貴重だし、チェックしておくべき内容だと思うけれど、一々他の福音書と比べながらの紹介は読んでてノレナイ。グノーシス自体の考え方自体の解説も納得理解できるレベルに至ってないと思う。福音はそれ自体連続で流れを大切にしてほしかった。他の本も読まないと全然納得がいかない。
しろうとには歯が立たない入門書 ★★★☆☆
☆の数が少ないのは、あくまでも「講談社学術文庫」を
万人向けの入門書と思って買った場合の評価です。本
書の学術的な価値とは関係ない事をお断りしておきま
す。外典については「トンデモ本」も多いですが、この
本はそんなものでは全くありません。

本書から「グノーシス主義の定義」の部分を引用します。

「それでは、グノーシス主義とは何か。それは、端的に
いえば、人間の本来的自己と、宇宙を否定的に超えた
究極的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという
「認識」(ギリシア語の「グノーシス」)を救済とみなす宗
教思想のことである。」

この説明でおよその意味が頭に入る人向けの本かと
思われます。

レビュアー自身はこの説明ではさっぱり理解できない
ので、ウィキペディアなどで勉強してみましたが、その
程度では残念ながら本書は読みこなせません。

本書は、全体量の約3分の1にあたる114ページまで
は「トマス福音書の背景」が書かれています。「なか見
!検索」で試読できる部分は極めて理解しやすく書か
れていますが、これはむしろ例外的。全体的にいうと、
前述の引用例だけでなく、一つ一つのことばがわかりや
すい説明で定義されていないので、文意が把握し難い。

特に、トマスの福音書を読むにはグノーシス主義の理解
が不可欠なので、本書を読むだけでそこがきちんと理解
できると有難いのですが、残念ながら晦渋極まりない。

また、本文中いたるところに囲い表がありますが、表題
がついていないので、その表が何を意味するのかわかり
難い。
たとえば95〜98頁にずらーっと文書の名前が囲みの
中に記されていますが、98頁にきてようやく本文中に
 「主な「外典」を一括して表示しておく。」
とあります。このようなレイアウト上の問題も、本書が
しろうとには読みにくい原因の一つか、と。

だたし、115ページからの「トマス福音書のイエス語
録」については、レビュアーでもなかなか面白く読めま
した。注解はやはり難しいですが、適当に流してもイエ
ス語録自体はシンプルですから。(背景が頭に入らない
以上、深い理解は無理に決まっていますが。)


初期キリスト教の側面史に触れる重要資料 ★★★★★
本書は84年に「福音書のイエス・キリスト」シリーズ第5巻「隠されたイエス-トマスによる福音書」として公刊されものが、その後の研究成果に基づいて翻訳を始め大幅に改訂されたものである。
著者によれば(1)コプト語トマス福音書は2世紀中頃エジプトで成立するが、(2)そのイエス語録の大部分は、それ以前に主としてシリアのユダヤ人キリスト者の間に流布していたものである。(3)これらの語録は共観福音書伝承とは別の伝承系列に連なるが、それよりも古いと断定することはできない。(4)同時に、共観福音書に並行する当福音書の語録が全体として共観福音書(またはそのコプト語訳本文)に依拠していると断定することもできない。(5)当福音書中にヨハネ福音書と部分的に並行する箇所が認められるが、これは当福音書の編集者(「トマス」)の思想が結果としてヨハネに近いためであると考えられる。(6)トマスの思想は明白にグノーシス派に連なる。4福音書に存在しない「知られざるイエスの言葉」の多くは、このグノーシス主義の立場から創作されたと考えられる。(7)従って当福音書所収のイエス語録を、トマス=グノーシス主義の視点で読むか、それ以前の段階=ユダヤ人キリスト者の視点で読むかによって、同一の語録でもその解釈は異なる。(8)「福音書」と名づけられているが、その文学類型は4福音書とは異なり、「語録集」である(pp.3-5)。
日本の新約学の第一人者である著者による注解は、正典との相違についても的確にまとめられており、逆に正典の神学的意図について考察する上でも大変興味深い。日本語によるトマス福音書の翻訳と注解は極めて限られており、その意味でも、初期キリスト教を巡る宗教史的背景に触れる上での本書の役割は極めて大きい。
信仰を後姿でみる錯誤 ★★★★★
福音書は「本」であろうか。ビブルはパピルスの輸入港の名であろうから、確かに其れは「本」であろう。旧約は偏狭な種族の掟、新約は異邦人への福音による旧約の救抜。トマスの語録はこれらに対し、少数者の秘儀セクトの先鋭な綱領であろう。頓悟禅のような語録七七が目覚しい。曰く「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。」新約正典も信仰箇条もみな後世の人為である。私たちはちょっと油断すると、それら、後世の範疇で歴史的当代を錯視してしまう。いわば過ぎ去った時間を安楽椅子に座ったまま、背中向きに遡り、当代の出来事と対面した気になっている。然しそれは、過去を「後姿」で眺めているのだ。現代の新旧のキリスト教徒はこの種の「異端の」の外典には構えてしまうであろうし、少数の聖書学者とアマチュア以外で真剣にトマスを読んでいるのは、果たしてどんな人々であろう。私も「宗教」などという無残な近代的範疇からは脱しているが、さりとて、「信仰」の書として向き合うのには所詮セムの地は遠すぎる。本当に遠すぎる。知に健脚がないのだ。結局、「珍しい本」に疑義し逡巡する間抜けなジレッタントという情けなくも必然の身の上となる。仏典だと法華や理趣でももう少し寛いで読めるのだが。鋼のごとき批評精神が生来ないわけだ。編訳者の荒井さんの営為のみは無条件で尊い。学者もこのレベルの人は本当に尊い。

必須資料 ★★★★★
キリスト教研究者としての立場から一言。
ことキリスト教研究だけに限るなら、旧約聖書やパウロ書簡は、参考資料としてはともかく、メインのテキストとはなりえない、と考える。
キリスト教は、あくまで、キリスト教であり、ユダヤ教でもパウロ教でもないからである。パウロの個人的信条なるものが絶対視されるのはおかしい。
しかし、トマスなどの、いわゆる外典福音書の場合には、これらと同列には語りえない。
なぜなら、キリスト教成立期において、なにが取り入れられて、なにが
取り去られたかが判る最重要資料だからである。
べつに、外典福音書を四大福音書と同等にあつかうべきとまでは言わないが、荒井先生ほどの碩学がなんのために訳したのか考えもしない研究者がもし居るとしたら、非常に残念な事である。