教養という形で認識されることの多いこの種の能力は、社会的に一定の価値を与えられている。それだけでなく、ブルデューの証明するところによれば、この文化的な能力を身につけることは、学校教育における競争においても、優位に立つことを可能にしている。
この文化的な能力は環境に多くのものを負っている。幼い頃から自分を取り囲んできた環境が、文化的に豊かであれば能力は磨かれるし、そうでなければ逆の結論になる。
この環境、つまりある人が文化にどれだけ親しんでいるか、が「文化資本の量」である。文化資本は個人に属する能力と見なされるが、生まれ育った環境によってその多くが決まってしまうという意味では全く運命的、固定的なものである。
こうして、ある世代における文化資本の量の差は、次の世代で拡大される。学歴がそのことに一役買っているのは予想のつくことである。だがより深刻なのは、学歴も文化資本も貧しい「階級」が、この文化資本獲得のレースで巻き返しを図ろうと戦略をめぐらすとき、その戦略はしばしば差を広げる結果をもたらすということだ。つまり乏しい元手で「まがい物」を手に入れて、本物の文化の代償とするような戦略は、文化的無能力をますますひどくするだけである。
文化的能力は人間の本性にもかかわる。その次元でこうした階級差が広がることの深刻さをブルデューは指摘する。「自由競争」「能力主義」という理屈がこのような観点においては全く無能力であることを、科学の力によって明るみに出したのが本書である。「行動する知識人」ブルデューが遺した、時代を絶する傑作である。