この国の真実・背理への気づきの書
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1997年〜2007年までの東京新聞、月刊現代等への掲載文と書下ろし「垂線」で構成され、日常生活で気づきえない近年の日本の政治、マスメディア、大衆心理の危機や我々が無意識で関わる罪や恥を考えるきっかけとして、特に辺見庸氏の著書を未読の方には強くご一読をお薦めします。
〜本文より抜粋〜
皆と一緒の行動にはたいてい救いがたい無神経とヒューブリスと暴力ないしその初歩的形態がひそんでいる。
歴史とはどのみち幾重にもあざなえる大小異質な不正義の縄の、虚偽の結び目のごときもの。記憶は歴史の紙くさい平面に垂直に食い込もうとする意思のようなもの。
小泉時代は第一に物事を生真面目に考えること、深く思惟することの無力感、不正にどこまでも異議を唱えることの徒労感を蔓延させた。すなわち、シニシズム(冷笑主義)のかつて無い伝播である。加えて、マスメディアと政治権力の臆面もない連携と強調も小泉時代にきわめて特徴的な風景であった。そして、唯一なしとげた貢献とは米国の戦争政策への全身全霊を捧げた売国的協力でしかなかった。
人はファシズムを実時間に自覚することが少ないものですが、いま私達の眼前に競りあがっているものこそ、21世紀の新しいファシズムかも知れません。
TVとは恥の花が時の別なく繚乱している世界なのですね。いや、恥の花じゃなくて、無恥の百花繚乱。無恥のばか花が咲き乱れ、まっとうな知が駆逐されている。
資本の法則には人格はありません。人倫など入り込む余地がない。人格がなければ恥も存在しません。
ドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラスがナチスの武装親衛隊に所属していたと告白した出来事は、人間の恥辱という実存的問題あるいはファシズムと恥辱という歴史的課題についての彼我の感覚の違いを知る上でも非常に示唆的でした。
百人支持してくれればいい。50人でいい。百万人の共感なんかいらない。そんなもん浅いに決まっているからね。
澱をたたえた水としての言葉
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2006年に行われた講演を中心に、過去のインタビューや雑誌に掲載された短い評論などを編んだ1冊。
近年の著者の文章は、ある種の衝迫力を持って私たちにさまざまなものを突きつけてくる。著者は絶望しているのではなく、誰よりも希望し続けている。その文章は、言葉、国家、思想を「信じる」「信じない」という希望と懐疑の間に張られた細い糸の上を渡っていく。
ここにきて、著者は自らの論理の矛盾さえ恐れていない。業界からの放逐を恐れない。読者から黙殺されることをもたぶん、恐れていない。
辺見庸は、戦後誰もつくろうとしなかったスタートラインを、もう一度つくろうとしているかのように見える。「風流夢譚」事件、ペン部隊、公正を気取るのに精一杯で、何も語ることのできない現代のジャーナリズム。文学と政治が決定的に離れていったのは一体、いつだったのか。
「いまここに在ることの恥」に次ぐ本書は、「いまここにないもの/すでに失われたもの」についての記憶の碑文である。それは暗に日本語全体の死の起源をたどっていく。