【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:池口恵観/著 出版社名:リヨン社 発売所名:二見書房(発売) 発行年月:2004年10月 関連キーワード:アジ ホノオ ノ ギヨウジヤ イケグチ エカン ジデン シユジヨウ キユウゴ ニ イキル シヤモン ソノ ハラン ニ ミチタ キセキ あじ ほのお の ぎようじや いけぐち えかん じでん しゆじよう きゆうご に いきる しやもん その はらん に みちた きせき、 リヨンシヤ フタミシヨボウ 7339 りよんしや ふたみしよぼう 7339、 リヨンシヤ フタミシヨボウ 7339 りよんしや ふたみしよぼう 7339 灼熱の護摩行を毎日行う行者、池口惠観の自叙伝。五百年続く修験の家に生また高野山真言宗傳燈大阿闍梨の波乱に満ちた人生の軌跡。 第1章 生長第2章 一念第3章 回帰第4章 修練第5章 卒然第6章 灯明
「理屈」では説明不可能な阿字観
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はぐらかされたと感想を述べておられる方もいらっしゃるようですが、池口法師は著書のなかで大変謙虚に、「自分」が護摩業を通して人を救うわけでもなく、「自分」が偉業をやって立派であるわけではない、「大日如来(この宇宙根源。エネルギー体とでもいう存在。)の導きでそうさせて貰っている。」とおっしゃられている。そして不動明王の導きでもあると。
自分は御仏のエネルギーに支えられ、役目として(いわば仏の道具として?)人々を救う祈りを捧げる道を与えられた、というようにおっしゃている。
池口氏に願えば何でも叶うなんてことは一言もおっしゃっていない。
私は仏教に関してはまったく精通してはいないが、この本を読んで仏教とは一つの哲学であると感じた。
それは、インド古来からある、宇宙観も含めた古来インド宗教に、ブッタという存在が誕生し、仏教が生まれた。弁財天、不動明王といった諸仏はもともとは古来インド宗教の神々であり、神々とはつまり宇宙のエネルギー体を具象化した存在といえるだろう。
我々は、この宇宙のエネルギーの一部であることは言うまでもない。その宇宙のエネルギーのおおもとが、信仰の対象である。
池口氏の本を読むうちに、阿字観、密教の教えなどは決して「頭」で理解するものではなく、心で感じるものだと思った。その一つ一つを「言葉」で一から説明しないと納得しないというのは、合理主義の現代における現代人病だといえるだろう。
そんな簡単に説明、理解できるものなら、人間はとっくに解脱しているはずである。
私も、勿論偉そうなことが言える立場では決してない。しかしこの本を読むうちに、何か宇宙生命の大きなエネルギーと自分は繋がっていて、池口氏がおっしゃるように「今」という瞬間に無心に全力を尽くせば、大きな力に導かれてゆく勇気が沸いてきた。
恐れや、嫉妬、邪な欲望があれば、それが曇りとなってエネルギーが届かなくなる。だから人は迷い、恐れと怒りの世界から余計に抜け出せなくなる。ならば一度素直になって、「自分」のためだけの幸せを願う欲望を払拭してみてはどうか。
それは池口氏にすがれば良いという、他力本願ではなく自分を救うのは自分であり、自分とはつまり宇宙生命の一部である。つまり自分もこの宇宙も全ては仏であると言うことではないか。それは、私がこの本の活字によって得た答えではなく、活字を通して広がる目には見えない、言葉では表現できない「心で感じた」一つの答えである。
池口師の知られざる一面を知った
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池口恵観師といえば前人未到の荒行で知られる方です。私も多くの著書を読みましたが、この本は、池口師の自伝であるだけに、また別の面白さがあります。学生時代に勉強が嫌いで、滅茶苦茶なことをされていたくだりなどは、思わず腹を抱えて笑ってしまいます。炎の行者・池口恵観師も、元は我われと同じ人間だったのです。
凄すぎる! この怪僧、まさに恐るべし
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宗教家が氾濫する世の中で、本当に信じられる宗教家というのは果たして何人現存しているのだろうか。云っていることとやっていることが違う宗教家や、平和を祈ると云いながら個人や他の教団を攻撃している団体、などが存在する限り日本人の宗教アレルギーは消えることはないだろう。「神は直接、人を救うことができない。だからこそ人を救うことができる能力を選ばれし人に特別に授け、神の代わりに衆生救護をさせている」と私はこの本を読んで強く感じた。医学博士を持ちながら医者に見放された病人を医療ではなく加持祈祷によって治し続けているという宗教家がいるということに驚くとともに、密教最高峰の護摩行で前人無糖の偉業を数々と成し遂げた著者に心から拍手したい。
はぐらかされた気がします
★★☆☆☆
著者が立派な方でどんなに有名人が傾倒しようとも、この本については納得がいきません。
護摩を不眠不休で焚くことは大変なことだろうし、訪ねてきた人には真摯に向き合ってくださるのでしょう。しかし、それは自らがおっしゃるように「プロの拝み屋」としてはやるべきことであり、それを語るだけならば、高校野球の練習にあけくれる球児も苦労については、同じようなことを語ると思います。
著者は多くの本を出されているようですが、どれも同じような半生記、活躍ぶりとポリシーについて語るだけなのでしょうか?それはなにを読者に訴えているのでしょうか?寺に来いという集客なのでしょうか?願えば叶うとおっしゃいますが、それはあなたの助けなしに凡人には不可能なのでしょうか?求聞持法を修されたのなら、その結果は本当にいわれているとおりだったのでしょうか?タイトルに「阿字」とあるのなら少なくとも「阿字」の示す世界観なりとも示してほしいな、と願うのは凡人の浅はかさなのでしょうか?
ご本人は真言宗の本流の中で着実に出世されている立派な方なのでしょう。しかし凡人の私にはこの本からなにを得たのかわからず、煩悩が増すばかりです。
もし言葉では説明できないというのなら、そもそも本で題材とするべきではないでしょう。そして、密教は哲学などという生易しいものではありません。哲学のために命をけずるような修行はできません。即身成仏を目指すリアリティのある世界です。
「拝み屋」という言葉には結果を問われる厳しさが含まれていることはわかっています。それゆえ、全体に漂う無難な雰囲気にイライラするのです。
護摩付座の経験で読む
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私は密教系の在家仏教修行を30年ほど続けたが、修行を始めて3年目のある日、猊下に承仕を命じられた。訳が分からない内に、先達に法衣を着せられて護摩壇に着座すると、護摩修法が始まった。炎の中に護摩木を積み重ねる時、火傷するかも知れないと恐れたが、承仕として猊下に迷惑をかけてはいけないと考えて、火傷を覚悟して手を伸ばすと、透き通った炎の中にゆっくり置いた手が熱くないのである。お護摩が終わったあと、猊下は承仕に対して、「本日は不動明王様が現形された」と述べられた。その後、何度も承仕を経験したが、仕事で心が乱れている時は不思議に命じられなかった。乱れが残っているときに承仕を命じられると、炎の中に差し出した手は火傷するのである。
そうした経験があったので、本書を手にして、68歳とは思えない池口恵観大阿闍梨の清冽な気迫がお護摩の熱気のように伝わって来た。これまで私は著者の存在も、その活動も全く知らなかった。前人未踏の大荒行である「百八万枚護摩行(1日1万枚を百日)」を1989年に行満成就したことも。京都の著名な松本明慶仏師が仏勅により世界一の高さ18.5mを誇る「木彫りの弁財天座像」を制作し、その落慶法要が2000年に行われたことも。白血病で余命幾ばくもないと宣告された医学生が著者を尋ね、1週間の護摩行に参加させて奇跡的な快復を得たことが縁で、「医療と仏教の倫理」に関する医学博士号を取得したことも。いずれもが、釈迦の仏教が目指した上求菩提・下化衆生を実現する「慈悲の智慧」がもたらしたものであり、弘法大師が真の釈迦仏教を日本に招来するのに成功したこと、しかもその法脈が現代まで連綿と受け継がれていることを著者が実証した訳である。
それにしても、情報化が進んだ現代でさえ、仏縁が無ければ貴重な出来事に対して聾盲と同じ状況に置かれることを改めて実感させられた。