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新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

価格: ¥420
カテゴリ: ペーパーバック
ブランド: 講談社
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僕はここは一体どこなのだろうとずっと考えている。 ★★★★☆
この作品には起承転結のある筋書きがない。

若者たちがセックスとドラッグと暴力の虜となり、
たまに奇行に走る様が繰り返し描かれているのみである。その描かれ方がとても詩的なのである。

「リュウ」という青年が語り手なのだが、
この主人公の奇妙な存在感のなさに未経験の味わいがあった。

リュウの目の前に広がる現実から語り手自身が浮いている感じなのである。
傍観者ぶって目の前の出来事に対してジッとしている訳でもないのに。
それゆえ語り手の目で切り取られた世界が、奇妙に静かなのである。

乱交の真っただ中にいるときでさえ、
彼は「僕はここは一体どこなのだろうとずっと考えている。」と心の中でつぶやく。

筋らしい筋のなさ、および饐えたアングラ描写に親しめない読者は多いかもしれないが、
一個の「文学的な新しさ」を創造し得ている作品には違いない。

私が読んだ芥川賞受賞作では最も強く「受賞妥当」と感じた。
よく当時の選考委員は今作を見出してくれたと思う。

ヨシヤマとケイの遣り取りは、今のDVを想起させた。
「小さい頃走って転んだりすると、ヒリヒリする擦り傷ができて、
その傷一面に強い匂いの染みる薬を塗ってもらうのが好きだった。
こすれて血の滲んだ傷口には必ず土や泥や草の汁やつぶれた虫がこびりついて、
泡と共に染みる薬の痛さが好きだった。」とはリュウの終盤の観想であるが、純粋に共感してしまった。
表現力の才 ★★★★☆
なんの予備知識も無しに読ませていただきましたが、
こんなドロドロした作品とは思いもしませんでした。
ピュアな方にはちょっと刺激が強すぎるかも知れません。
若気の至りというか若さ故の暴走なお話。

やはり特筆すべきは、著者の描写表現の豊かさと比喩の上手さだろう。
そのリアルさ故、読書もまるでその場に居合わせている様な感覚に陥る。
そして何とも不快な気分にさせられる。
そういった意味では、著者の表現能力はやはり秀でてると言わざるを得ない。
主体の外部へ ★★★★★
主体と客体とが明確に区切られ
合理的にふるまうべき社会的な状態から抜け出す。

その透明の場所へ
決してたどり着くことは出来ないけれど、
限りなく近づいた青い春の経験。
心の傷口、体の傷口 ★★★★☆
 この小説の中は乱交や暴行や中毒だらけです。しかし、何か瞑想的なシーンも挟まれ、どこかマルグリット・デュラスや吉行淳之介のような香りが漂います。生々しさも抒情も、いちいち痛みを伴って心に突き刺さったり切り傷を作ったりします。しかし、それが何かしら心地よくもあります。
 昔ならこんなのは発禁処分だったかも。しかし昔の人たちが無垢で無傷だったかと言えばそんなことはなく、むしろ現代以上に傷だらけだったこともしばしばだったでしょう。現代の良いところは、こういう傷だらけの体験をこうやって可視化して、記憶したり予測したり、みんなで話し合ったりできるところです。
 どんな人でも、傷口は持っているはずです。みんなそれを抱えながらどうにか人生を送るしかないんです。乱交も何も、傷口を与えると同時にその人物に何かを思わせる。それが、「限りなく透明に近いブルー」のような色をした、痛い記憶を伴う抒情なのでしょう。
限りなく時代に染められてゆく色 ★★★★★
 1976年に作者自身の装丁で発表され幾度も重版された表紙からリリーの横顔が消えた新装版。解説には綿矢りさ。
 あまりにも無骨な表紙の村上龍のスケッチは無機質なブルーに塗りたくられた。僕はそこに時代を感じる。今でも色褪せない鮮烈な題名だが、発表から33年の時を経た今、本作で痛々しいほど描写される、麻薬、セックス、陶酔、暴力、狂気に塗れた登場人物達に今の若い世代の読者は、発表当時社会現象になったそれらに‘青春’など一時も感じないだろう。退廃しきった時代に生まれたのだ。それならば、いっそのこと当初の題名であった「クリトリスにバターを」に題名を戻し、中学の国語の教科書に載せ、夏休みの読書感想文の課題作として宿題にし、生徒に家に持ち替えさせれば良い。子供達は親にも聞かず部屋に籠り、どんな優等生でも真っ昼間からパソコンの画面を前にネットで‘麻薬’‘クリトリス’とキーワードを打ち、検索し、知るのだ、クリトリスにバターをという何ら害のない露骨な性表現を。そうすれば影響は小学生にまで至り、女生徒だけが体育館に集められ保健の教師から生理とは何か、ナプキンやタンポンの使い方の説明を受ける必要もない。
 それだけ、物語の主人公であり、作者の投影でもあるリュウの恋人であるリリーの横顔の拙いスケッチがこの作品の表紙から消えるということは僕には極端に現代を反映する文壇の低迷の象徴のように感じる。
 そしてこの新装版で映えるのは自らの著書「蹴りたい背中」で正に新たな現代の青春像を時代に刻んだ作家・綿矢りさの解説である。
 彼女は解説の中でスティーヴン・キングの「小説作法」という著書の中から‘文章とは何か’という問いにスティーヴン・キングが‘もちろんテレパシーである’と答える部分を引き合いに出し、作家と読者が同じ映像を見ているわけではないのに、文章の力によって、作家と読者が互いの頭のなかにまったく同じ映像を思い浮かべるといった、村上龍の描写力の凄みを称えている。‘蛆’や‘注射針’などの単語だけでも本作には村上龍のえげつないまでの描写力があふれている。‘油臭い口紅’‘腐ったパイナップル’など吐き気がするようなものも、解説の中で綿矢りさは自身が「蹴りたい背中」で芥川賞を受賞した十九歳の頃、見るものを選ばず後悔していると書いている。
 小説は最初の一行が全てで、一ページ目で読者の心を掴まなければいけないなどと作者は強いられるが、印象的な本作のリリーの横顔の表紙が真っ青に塗られても村上龍の作家としての才能と力量は綿矢りさが解説するまでもなく、本作冒頭の情景に十分読むことができる。
 飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の音だった。蠅よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなった。
 天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある。フィルターに口紅のついた細長い煙草がその中で燃えている。洋梨に似た形をしたワイン瓶がテーブルの端にあり、そのラベルには葡萄を口に頬張り房を手に持った金髪の女の絵が描かれてある。グラスに注がれたワインの表面にも天井の赤い灯りが揺れて映っている。テーブルの足先は毛足の長い絨毯にめり込んで見えない。正面に大きな鏡台がある。その前に座っている女の背中が汗で濡れている。女は足を伸ばし黒のストッキングをクルクルと丸めて抜き取った。