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愛と幻想のファシズム(下) (講談社文庫)

価格: ¥800
カテゴリ: 文庫
ブランド: 講談社
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破廉恥な小説、しかし・・・ ★★★★☆
内容はまさに”幻想”のファシズムについてです。
およそ30年前に書かれた小説とのことで当たり前ですが
現在と時代背景は異なります。

驚くべきは弱者への差別、ファシズムという命題に堂々と挑んでいることです。
人間という生き物の弱さを鋭く指摘した上で狩猟を至上とし農耕を弱者と
定義しています。システムに拠らなければ生きていけない大衆を
嘲り、容易く操ります。作者は他民族に犯されることを知らず、危機感をもたず
見下されていることにすら気がつかない日本人(=農耕民族)に苛立っているようにも感じました。

はるか上から自分たちを見下し操ろうとする”システム(ザ=セブン)”
を情報操作で自分らと同じ土俵に引きずり下ろす様はまさに現在の
システムの脆弱性を示しているようです。

発想が突拍子も無いこと、物事がうまく行き過ぎること
最も興味のわく政権をとった後の狩猟社の記述がないことが
残念な点かと思います。一方で鈴原冬二は強いリーダーのいないこの国で
(生まれてはいけないが)望まれている存在なのかなと感じました。

正直この小説は読者を選ぶと思います。この本は少数派である
有識層かつ強者の視点から描かれており、(自分も含まれますが)
システムに拠らなければ生きていけない多数派の弱者を卑下する
内容であるからです。しかし抗い難い魅力があることも事実です。
現在我々に落としがたい垢としてつきまとうシステムを破壊し
原始の時代に回帰したいという曖昧な願望が心の奥底に確実に
存在するからです。
申し訳ないが私はこう思う ★★☆☆☆
農家である私に憎悪の念を抱かせ作者をハンティングしようと思わせた。これも作者の策略か。
私は動物として生き残るより人としての死を望む。
20年前に書かれた30年先の予言 ★★★★☆
久し振りにダンボールから取り出して目を通してみた。
南米発のデフォルトで米ソが手を取り合い、日本にカリスマが登場する
物語。

書かれたのが1987年だが、現実の歴史は、1991年バブル崩壊、1997年に
アジア金融危機と山一破綻、2002年にITバブル崩壊、2007年にサブプ
ライム問題、というように「システム」の本質的課題を先送りにする
毎に起こる問題の深刻さが増して来るようだ。

主役の鈴原トウジはハンターだ。でも「ハンター」は、今、本家アメ
リカでは、発達障害の文脈で語られることが圧倒的に多いようである。
行きどころは、CIAかNASAくらいなのだろうか。
日本ではどうか。アメリカに追いつく前に「アメリカという巨大な
システム」の崩壊に直面することになるのではないだろうか?

村上龍の勉強量の凄さにはこの作品を読むたびに今でも圧倒される。
でも、彼の本当の凄さは30年先を見通す独特の直観力にこそある
だろう。10年先、いや早くて5年先を見通す手がかりとして、
20年前に書かれたこの本を今一度手に取ってみることを多くの人
にお勧めしたい。

蛇足ながら最後に。「固定客」のいる作家の作品にレビューをつける
のは、小心者の自分には結構勇気が要りました(笑)。
的外れな意見と思うなら、どうか看過下さい。
スターリニスト ★★★★★
二週間掛かった。長い。

トウジになるのか
ゼロになるのか


スケールの大きい話。バブル崩壊手前で書かれた作品。

極限状態で、同じ人間関係が保てるか。そういう判断基準もあるんだなぁと思った。


読み方次第で、犯罪者を作り出してしまう作品だと思う。
また数百冊の経済関連書籍を読んだ著者。細かい部分まで徹底して書いている気がする。知識不足でよくわからない。

システムへの反抗というテーマは難しすぎる。わからない。


引き込み度が高い作品。
抗えない魅力 ★★★★★
1987年発表の作品の下巻。
上巻で伸張した主人公「トウジ」率いる結社の国外の対立勢力との闘いを描いていく。
上巻で圧倒的なスピードで勢力を拡大したトウジ達が直面する、国外勢力の壁。
下巻で描かれる主人公達は「閉塞感」や「疲労感」をまとって描かれている。さらに結末はあまりに儚い印象を受けた。システムの埒外から革命的な組織を作ろうとしていても、現状を打破するためには現状のシステムを取り込まざるを得ないという、トウジたちのジレンマが行間から伝わって来るようだ。

現代社会でトウジ達のように「適者生存」を大原則とした政策を掲げることはおそらくタブーであろうが、生物活動上の大原則である「適者生存」は、これからヒトという種が健全に繁殖する上では、とても抗いがたい魅力を持っている。医療の進歩や技術革新は本来生存すべきでない個までを、社会的コストやリスク負担を伴って生存させてはいないだろうか。適者のみが生存できる社会は本当に非難されるべきだろうか。

道徳的な人権思想やミクロな幸福感を満たすために、生活習慣病的にゆっくり社会全体あるいは種全体が病んでいく。気付いたときには複合的かつ不可逆的な病の進行が明らかになるだけ、そんな社会を我々は望んでいるだろうか。
あくまでフィクションであり、現実に起こりえる可能性を考える必要はないかもしれない。ただし、平和でのどかな「人権思想」に基づく「平等」社会は本当にヒトにとって理想的な社会であるのかと言う点をこれでもかと揺さぶる良作である。