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消尽したもの

価格: ¥2,100
カテゴリ: 単行本
ブランド: 白水社
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ベケットとドゥルーズの幸福な出会い ★★★★★
 最近「ゴドーを待ちながら」いろいろな劇団によって再び演じられている。だがこの現代演劇最大のクラッシック以降、ベケットの戯曲はどんどんシンプルになっていく。だがそのイメージは一貫して終末である。タイトルのそのままの「勝負の終わり(勝負の終局という意味なのだけれど)」、砂漠で砂に埋まりながら過去を思い出す「しああせな日々」、惚け老人の死に際の妄想のような「わたしじゃない」など。この終末がいかなる種類のものであるかをドゥールズが分析したのが本書である。そして評論の対象となるベケットの晩年の4作品「クワッド」、「幽霊トリオ」なども同時に収録している。ベケットの終末を、ドゥールズは「消尽」であるとする。ベケットの「クワッド」という作品を例にとろう。この戯曲は、4人のダンサーがそれぞれ異なる4色の衣装を着、正方形、および対角線方向にステップを踏む。そこでは4色のあらゆる可能性が演じられる。さらに続いて、暗い証明の中で「クワッド2」が演じられるが、ここでは4人のダンサーの衣装はすべて白だ。ベケットによれば「クワッド2」は1の十万年後だという。ベケットにおける終末というのは、単なる世界の終末などではなく、あらゆる可能性がなくなった終末ということである。世界の終わり、宇宙の終わりといったはんぱなものではない。量子力学の分岐宇宙論では十の十の十の十二乗くらいの平行宇宙があることになるらしいが、その可能性の全てが費えてしまう宇宙ということなのだ。そこまでいってなお演劇を成立させているベケット。ベケットの戯曲について語るドゥルーズもまた、自分より元気だと思っていた盟友フェリックス・ガタリを失い、自らも人工肺で生きているという。ドゥールズ自身、自分が「勝負の終局」にさしかかっていて、なお仕事が残されているという意識があるのかもしれない。
テレビのための作品 ★★★★★
 ドゥルーズの著述については、なんとも言いようが無い。果たしてベケットの作品についての解説になりえているのかいないのか、どちらとも決めかねるからだ(たとえば『クワッド』は、ドゥルーズの言うような「空間の潜在性の減衰、空間の消尽」なのか、或いは寧ろ「空間の潜在性の顕現」なのか、それとも別の何かか、どれも間違いなのか、知れたものではない)。あくまでこれはドゥルーズを通して見たベケット像、ベケットを媒介としてのドゥルーズの思想の展開として受容すべきであろう(もちろん興味深い示唆はいくつもある)。

 この本のメインは、寧ろベケットのテレビ作品にある。四つの作品が収められており、いずれも興味深い。『幽霊トリオ』や『雲のように…』の舞台装置の構造や、作品に引用されている詩や曲、二種類の『クワッド』など、思索を誘う事柄も数多くある。ベケットの創作の深まりを感じ取ることができる作品群だ。個人的には、『幽霊トリオ』の「誰もいない」という言葉の繰り返し、それの第二部と第三部の関係、『雲のように…』の終幕場面が気に入っている。日本のテレビ局が放送することはほぼ無いだろうが、一度実物(?)を見てみたいものだ。

ベケットを先に… ★★★★☆
 原書ではベケットのテレビ作品の後に、ドゥルーズのエッセーを収めているそうだ。翻訳ではその順番が逆になっている。ドゥルーズのエッセー、ベケットの四つのシナリオ、宇野邦一のエッセー、訳者あとがき、の順である。何でこの並びになったのかわからないが、個人的にはベケットのシナリオを読んでから、ドゥルーズを読んだ方がずっと入りやすかった。

 シナリオというべきなのか、図面というべきなのか、何かほかのものなのか。いずれにせよ、ここに採録されているベケットの作品はどれもすばらし

い。特に、舞台製作者、役者、演出家、戯曲家、カメラマン、ディレクター、照明係などの、実製作者の人々に読んでもらいたいものだ。どれも短い作品だが、読みながら頭の中でじっくりと再構成していくと、一見土建屋の図面のようなシナリオがいかに音楽的で詩的なものか伝わってくる。さらに、そのあとにドゥルーズのうんちくを読めば、なんとなくわかった気にもなろうというものだ。