“FREE AS A WINDOW”−1枚のブドウの葉が象徴する自由と平和への思い−
★★★★★
スペースシャトルに搭乗した日本人初の宇宙飛行士、毛利衛さんが当時こんな言葉を残していた“宇宙から見た地球には「国境の線」はありません”。
この物語の本当の主人公は“一本のブドウの樹とその種”です。植物の種はある時は風に乗って運ばれ、またある時は鳥や動物によって運ばれ、舞い降りた大地で新たな芽を蕗かせます。決して誰に決められたわけでもありません。
戦争で荒れ果てた大地に一人の少年が見つけた一枚の木の葉は芽を出し、やがて大きな樹へと育ち心地よい木陰を作り、そこには子供達や鳥たちが集まって“笑顔と会話”が生まれます。ある時ブドウの樹は引き抜かれその後に鉄条網の柵が作られます。
物語はこれで終わりでしょうか?。いいえ、鉄条網の柵のこちらにいる少年が見たモノ、それは柵の向こう側にいる小さな女の子が何か小さな植物の芽に水をあげている姿でした。少年はその姿に自分とそっくりなことに気がつきました。女の子が水をあげていた小さな芽は柵のこちらにあったブドウの樹と同じモノだったのです。ブドウの樹は自らの命を伝えるため、鳥に頼んだか風に頼んだかして、種を柵の向こうへと運んだのです。
この物語を読んだ時、頭に浮かんだ言葉は先ず“希望”であり、そして“人間も自然の一部にすぎない”と何とも当然なことでした。このシンプルな言葉が本当に生かされているならば地球の上には“悲しんでいる人の顔”が多くはないはずです。にも拘わらず“悲しい顔をしている人”の数が多いのは何故でしょう?
「国境の線」は政治的な都合で“取り敢えず決めておこう”との約束の上で“作られた”モノにすぎません。人の思いはその国境すら容易く越えてしまうことも私達は既に知っています(言語や歴史も習慣も異なる数多くの国々が集まっているヨーロッパもEUという一つのグループを作ってきています)。“壁の彼方と此方にいる”のは同じ“人間”であり、どちらかがエイリアンなどではありません。もし言葉が通じなければ仕草で話すことも一つの手段でしょう。思いを伝えるには動物としての人間が持つ“五感”を使えば十分でしょう。
心地よい音楽の調べにも似た言葉が印象的な作品でした。