意識ではなく、クオリアの入門書
★★★☆☆
本書の大部分は、茂木氏の研究テーマである
「クオリア」についての初歩的な知識を、
誰でもわかりやすく理解できるように書かれたものである。
本書の冒頭で述べられる「哲学的ゾンビ」とは、
脳の働きを機能的に理解した結果のモデルにすぎず、実際の人間であるならば、
生きていく上で「質感」を感じて生きているのであるが、
その「質感」を形成する最小単位を「クオリア」と呼称している、
というところから本論がはじまる。
決して難しいことが書かれているわけではないので、
落ち着いて読めば「クオリア」とはなにか、また、「私」を生成するものはなにか、といった
従来の脳科学では取り扱っていなかった、
あたらしい脳科学の分野の初歩的な知識が得られる。
しかしながら、本書には表題である「意識」についての言及が圧倒的に少ないように思えた。
そもそも現代の脳科学において、夜眠るときに意識が「喪失」し、
それが朝になれば「戻る」といったメカニズムの解明が出来ていないので、
わからない、というのが正直なところなのだが、
それ以上のことが書かれていない
(たとえまだ実証されていない仮説であっても、
それを明記した上で例をとって書かれてあれば読み物としては面白いものになる)。
クオリアの理解は、むしろその意識のメカニズムの複雑さを実感する上での
前提的な知識であるといえる。
ゆえに、本書を読んだからといって
「意識」についての理解が得られるわけではないのでその点だけは注意して頂きたい。
個人的な感想をいうと、とても面白い内容で楽しめたのだが、
表題を間違っているような気がしてならない。
古い酒を新しい皮袋に?
★★☆☆☆
多くのレヴュアーの方々が的確な批評をなさっていますが、屋上屋を重ねるを覚悟で私なりの紹介をしてみたいと思います。
この本のタイトルである「意識とは何か」は若干ミスリーディングな感じですね。これから読んでみようという人の気を削ぐつもりはないのですが、この問いは本書の本筋ではないようです。この問いに対する斬新な見解を求めている方は当てが外れるでしょう。
論じられる問題は脳とクオリアの関係です。クオリアとは味とか色とか触感とかの主観的体験要素のこと、ちなみに「われ思う、ゆえにわれあり」の「われ」もクオリアだとされています。単なる有機物の塊、神経細胞のネットワークに過ぎない脳がどうしてクオリアを生み出せるのか。言い換えれば、物質に過ぎない脳がどのようにして心を産出できるのか。これが大問題であることを著者は1990年代、自身が30代のころに列車の「ガタンゴトン」を聞いて「発見」したそうです。そしてこの問題に対する答えが提出されていて、それは「分からない」というのがその答えです。まるで「決定しないことを決定した」というどこかの国の政権政党のようです。
ここまで、読んで落胆なさっている方も多いでしょう。しかし、受け入れなければならない現実というものがあるということで納得してください。
著者が問題としていること、脳とクオリアの関係は、哲学の世界ではデカルト以来、数百年来の問題で、心身二元論、心身問題という難問として知られています。幾多の哲学者がこの難問に挑戦し、そして挫折した、死屍累々たる歴史があります。
著者はこの数百年来の古い酒、すえたにおいを発し、とても飲み下せないだろうと思われる古酒を意気揚々と「発見」し、あろうことか一気飲みするといいます。そして一口含んで吐き出して、「やっぱり無理です」と素直に降参します。
分からないことを「分からない」と告白する潔さは立派だと思いますし、何冊だろうと本を書くのは当人の自由ですが、本を書くのなら何か分かってから書いたほうがいいのでは?
いいところは、文章が明快なところでしょうか。変な気取りがなく、気持ちのいい人柄の方なんだろうと推測します。問題を明確に述べていて、ミラーニューロンの話が面白かったので、星二つということで。
はっきり言って、難しい
★★★☆☆
はっきり言って、難しい本である。正直な感想は、「わからない」である。したがって、レビューといっても、「引用」と「連想」である。
要は、「クオリアに満ちた主観的体験が生まれるという事実自体が、脳をめぐる、そして私たちの心をめぐる最大の驚異である」ということだそうだ(p.162)。
それで、「複雑な脳のシステムにおける同一性の維持をめぐる条件が、私たちの意識がクオリアを伴って存在するという驚異の背景にあると考えられる」(p.197)。
この同一性の問題を扱っている部分はおもしろかった。
つまり、たとえば、そこにいる人間は、1年前の人間と同じかというと、物質的には入れ替わっている。しかし、そうであっても同一人物と認識するメカニズムはなにかと言うことである。また、厳密さ(物質レベルでは同一性はないことが分かっている)とあいまいさ(物質レベルでは同一性がなくても同一と感じる)の両極端を許容する「意識」のメカニズムにも焦点を当てている。これを脳の「柔らかな認知プロセス」と表現している。
実際、数学も言語と考えれば、数学は限りなく厳密な言語であるのだろうが、実際は、数学的な言語でなく、あいまいさを多く含む日常の言語で生活できている柔軟性というのは、実はすごいことなのだろう。
あと、チューリング・テスト(人間かコンピューターか事前知識なしでは判別できない場合に、コンピューターに知性を認めるとするテスト)についての記載があったが、「ブレードランナー ファイナル・カット (2枚組) [Blu-ray]」で、デッカードがレプリカント(人造人間)か人間かをテストするシーンは、実は、チューリング・テストそのものではないかと思った。
なお、巻末の参考文献が刺激的である。一部を載せると、「世界の名著〈51〉ブレンターノ,フッサール (1970年)」、「志向性―心の哲学」、「意識する心―脳と精神の根本理論を求めて」、「「私」の存在の比類なさ」、「甦るチューリング―コンピュータ科学に残された夢」である。
ひどい
★☆☆☆☆
“意識とはなにか”から内容がはずれてくるし、答えの出る問題ではないにしてもそれらしい回答もない。 クオリアは茂木さんが言い出したことではないのにそうとは書いていない。 クオリアは脳の情報処理過程の一段階でしかないのにそれを以て意識を議論するのはそもそも無理がある。 茂木さんの言う“生成”は言葉は違うけど既に仏教ではよく理解されていること。決して科学者がこれまで無視してきたことではない。 茂木さんは科学者と名乗るのに、何も科学的な検証がなされていない。 茂木さん自身があとがきで書かれたように、何を書いているのかわからなくなったのでしょう。
科学と意識を結びつけるもの
★★★★☆
現在の科学では解明できていない意識の存在があると思う。それを少しでも知りたくて購入通読
通読してみると、意識の存在がどのような特性をもっているか、その特性はどのような過程でうまれてくるか、意識の同一性、問題の難しさ、クオリアの共有、他者との関係などをテーマとして説明してくれている。自発的な創造ができるのは脳だけで、コンピューターでは想定外の存在はエラーとして判断されると、新しいスキーマ(クオリア)を動的に変化させ続けて、次のステップに利用できるのか脳の力だと述べているが非常におもしろかった。主観的な概念(スキーマ)であるが、他者と共有できる。なおかつ計測が難しく常に変化し続ける概念「クオリア」というものが理解できる書籍だとも思います。また、現在の科学は脳の科学反応から生まれる意識についての解明がまだできていないとも述べているが常に変換し続ける「意識」を科学という概念から理論づけることには限界があるのではとも感じた。
通読することで意識から生まれる質感について考えてみる機会になりました。