特に日本人には一読の必要があるのではと考えて、、
★★★★★
確かに、著者は拘りの強い人柄で、偏りのある内容です。
社会に出て会社組織などで働いている人にとってはごく普通の処世術も、著者にとっては嫌悪の対象のようで、近くにいたら面倒くさいことこの上ない人物でしょう。
けれど、いまの日本が安易な「優しさ至上主義」に陥っているという本書の問題提起には全面的に賛成します。
厳格でなければならない場面においても、優しさを強要する雰囲気に負けて正しい言動を貫けないという問題が、政治をはじめ、社会の隅々にまで蔓延しています。
すべての人にとって、自分自身の中にいる弱者=善人(偽善者)について省みる良い機会として、一読の価値はあると思います。その意味で星5つにしました。
こういう癖のある人の主張に、すぐに嫌悪感を抱き拒絶してしまう人も多いようですが、それ自体、舌触りのいい優しさに慣れきった「善人」の特徴のように思います。
大体、「偏りのない人」の書いた本なんて、果たして読む意味があるのでしょうか。
頭でっかち
★★★☆☆
利口な人はおそらく最初の数ページで読むのは時間の無駄と悟るだろう。
思考が偏りすぎているし、ここまで画一的に弱者の性質を決め付けることは乱暴だし、こういう意見もあるのだな、と感じるには最初の数ページで十分だから。
この本を読んで満足感や肯定的な感情を覚えるのは、「俺は他人と違う」などと言って憚らない中二病患者くらいだろう。
こんな本を読む暇があれば、外に出てもっと人の心に触れるべき。
「みんな」に迎合し、「優しさ」を要求し続ける病理。
★★★★★
友達確認に過ぎないメールを送りあう、現代の中高生には、本当の友人同士の「信頼」があるのでしょうか。ひとたび返信が遅れれば、たちまち「裏切られた」と言い募りかねない、脆いものであることはないでしょうか。事実、彼らは「ケータイ」依存ですが、それは「罰される」という意味で、「イジメ」られるのが怖くて、返信を続けているに過ぎません。友人への不信感を覆い隠し、メールで「優しき脅迫」を繰り返し送りあうという、相互監視に過ぎない友人関係ではないでしょうか。
この本は、このような偽善的な人間関係を暴くものと言っていいでしょう。
自らの身を守る為の打算に基づいて、あらかじめ自分は「優しい」という布石を打つことで、攻撃された場合のアリバイを作っておくという、卑劣な論理で動きがちな現代日本人。そこで「裏切られた」と見るや、相手を信頼していたわけでもないのに、自分の方は「優しい」態度で接していたというアリバイを用いて、徹底的に相手の裏切りを攻撃するわけですね。このように、相手に配慮するように偽装した形で、自分の身を守る予防線に過ぎない「優しさ」を用いる「善人」の卑劣な賢さを指摘します。これが、「信頼」には値していないことなど、言うまでもないでしょう。
そして、周囲に自分が惨めであると「同情」を装った脅迫を用いるという、弱者の加虐的な心理を暴き、それが弱者集団における、一種の「権力」であると明らかにするのです。このような差異ある他者の存在への不寛容な態度で、際限なき「善人」たる「みんな」への同一化を求め、苦しさを味わっていない強者という「罪人」に対しては、その「抜け駆け」を罰しようと陰湿な嫉妬を抱きます。このように、強者に負い目を抱かせようとする弱者の論理を、「弱者の権力」と指摘します。
一方で弱者自身も、自分自身に世間の価値観への無批判な「同一化」を追及する結果、自分を押し殺し、自分自身を見失うことで、どうしようもなくなっていってしまう自縄自縛の縮小均衡ループに陥るようです。ニーチェは、このように善人こそ諸悪の元凶であると、鋭い洞察力で喝破したようです。
非常に懇切丁寧に、弱者の論理を詳細に分析し、具体的な事例を挟みながら、文章を進めていってくれます。
『超訳ニーチェの言葉』が何故売れたかに関する中島義道的回答と危惧
★★★★★
この本は『超訳ニーチェの言葉』が何故売れたかに関する中島義道的回答と危惧を表明するために書かれた。
「ヒトラーとニーチェを俎上に乗せて,ニーチェとヒトラーはまるで違う,ニーチェは偉大な哲学者であるが
ヒトラーは極悪人であるという都合のいい線引きに違和感を覚えた」のだそうである。
ニーチェはヒトラーに利用された、ヒトラーに根拠を与えたという言い方をする人もいるが,それよりは、
「同じところがある」の方が正しいと思う。
著者のニーチェとヒトラーへの評価はおそらく次のように要約される。
「ニーチェは観念だけの危険な哲学者ではなく、その思想の前に(ほとんど?)
すべての人間は生きる価値を剥奪されること、だがニーチェという男はじつに弱気で卑劣であったから,
自分の思想を実践する勇気がなかった」
「そのほんの一部を実践したのが(小者の)ヒットラー」ということである。
ぼくは「弱者」という言葉が嫌いだったが,何故嫌いなのかこの本を読んで明確に分かった。
「弱者とは,自分の弱さを『正当化』し、自分の無知.無能力,不器用,不手際,魅力の無さに気がついているのであるが.
それをちょっとでも責める他人の視線の遭遇するや、その傲慢さを、見識の無さを、優しさのなさを、徹底的に責め立て、
袋叩きにし、けっして許さず、血祭りにあげる人のことである」という。
つまり弱者は「弱者をいじめるなんて一生許さない.制度が悪い、不平等だ」と叫ぶひとである。
臆面もない要求ばかりする人だったからぼくは弱者が嫌いだったのだ。『弱さを武器にした悪臭』がするから嫌いだったのだ。
ニーチェの嫌悪の矛先は弱者である。弱者はつまり大衆であるが、その大衆のうち「ほんの少し下位にいるもの」が
より弱者の定義に当てはまる。ヒトラーは弱者に弱者から抜け出すという希望(ドイツ人ならみんなユダヤ人より上)
を与えて弱者の支持を勝ち取ったのである。
善との葛藤
★★★★★
人間の醜さとは実はほとんどが表面だけのようなものだと僕は思う。そのイメージだけで捉え陥る悪循環のような思考は僕自身の人生にも多々あり、今現在も抱えていることだと言える。その善人が抱えている内部については僕なんかは知る由もないことだらけなはずだ。そして僕自身も善人なのだろう。
中島氏の考えや思考には同感できることが多々ある。僕としては他人の悪を暴くだけではなく、自分の無力さも忘れずに痛感しながらも絶えず思考することも重要だ。
ニーチェと中島氏の強烈なエゴイズムは僕にとってとても参考になるのかもしれない。