「日常的リアリティ」の貧しさと「人形の時代」
★★★★★
◆「日常的リアリティ」の限界
〈探偵小説というジャンルそれ自体が、日常的リアリティの
観点からは「不自然」の塊である。
(中略)
問題はあくまでも、「不自然な計画犯罪」にさえ濃密な小説的
リアリティをもたらすところの、探偵小説的空間の強度にある〉
けだし、広く流布されるべき至言といえます。
「日常的リアリティ」のみでミステリをはかると、その豊かさを十分味わうことができません。
◆『匣の中の失楽』(竹本健治)について
〈『匣の中の失楽』には、(中略)人形の名前を与えられた人物が多数登場する。
見通しのきかない濃霧の世界に対応する人間は、人形のメタファーで
語られなければならない。
人形とは人間の形をしたモノである。またマリオネットがそうであるように、
なにものかに操られるしかない無力なモノでもある。しかも操り手の正体は
濃霧の彼方に隠されていて、闘うことも逃れることもできそうにない。
作者が人形のメタファーで示しているのは、もはや人間ではないが、かろうじて
人間だった記憶だけは残されているという過渡的な存在だろう。人間だった記憶が
彼を不幸にする。人間であるべき自分なのに、もはや人間であることが許されて
いないという致命的な自己分裂。それが耐えることのできない不全感、窒息感、
失調感をもたらし、閉じられた世界の外に超出するという奇跡を夢想させる。
不連続線を越えることを。〉
著者は、竹本健治氏を「タコ足型の『自己消費』派」の代表作家と見なし、その一派の
作品群は〈一九八〇年代に流行したポストモダニズムの〈中心〉批判、〈終わり〉批判、
〈真実〉批判の無自覚的な反復にすぎない〉という辛口の批評をしています。