惜しい人たち
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ある日、喜瀬さんが真栄平の北東のはずれまで来た時、赤ちゃんをおぶった20代後半くらいの婦人が泣きながら「兵隊さん助けて」(台員も軍服を支給されていた)と声を掛けて来た。案内で空き家の民家に駆けつけると迫撃砲弾の直撃を浴び、夫らしい男性が死亡、そばで片足を無くし腹から腸が飛び出した5歳くらいの男の子が苦しんでいた。すぐに応援を求め宮里さんがやってきた。宮里さんは、苦しんでいる男の子を見て「これ以上苦しませるより、早く水を飲ませて楽にしてやったほうが良いんじゃないかねえ」と言った。同意を得ると狼狽える母親の代わりに水を飲ませた。男の子は水を美味しそうに飲むと直ぐにこと切れた。
庭の大きな芭蕉の木の下に大小二つの穴を掘った。埋葬を始めると婦人が「ちょっと待って」と民家の中へ取って返した。どうしたのかと訝る二人の前に母親が涙ながらに抱えて来たのは、男の子のちぎれた片足だった。最後に婦人に言った。「奥さん、しっかり覚えておきなさいよ。真栄平の北東の端の、屋敷の後ろ側のバナナ畑の角だからね。大きな石はご主人、小さな石は坊やのお墓の代わりだからね。あんたは何としても生き延びて、お骨を先祖伝来のお墓に入れて上げるんだよ」。
そのことが気になっていた喜瀬さんは終戦翌年の1946年春、真栄平の現場を訪れた。「芭蕉の幹は焼けぼっくいになりながら残っていました。その下の大小二つの石は取り払われ、穴は掘り返されていました。あの仮埋葬は僕たち3人しか知りませんから、ああ、あの奥さんは戦争を生き抜き、遺骨を拾えたのだな、と嬉しかったですねえ」そう言って、喜瀬さんはハラハラと涙を流した。沖縄の「守礼の心」は戦火の中でも失われることはなかったのである。 以上 本文より。
軍人でも民間人でもない彼らは両方の気持で‘特攻に殉じた’。
開戦時38名の台員は5名のみ生還した。