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千のプラトー―資本主義と分裂症

価格: ¥8,100
カテゴリ: 単行本
ブランド: 河出書房新社
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永久運動、永久革命の書 ★★★★★
「アンチ・オイディプス」において、古代から封建制を経て資本主義に至る欲望の流れを描いたとすれば、「千のプラトー」は、様々な文化現象や歴史を具体的に分析した書物と言えるだろう。言語学、音楽、絵画、政治体制などを分析しながら、それらの中に潜む運動性の原理を抉りだし、その運動性を更に徹底させようとする。永久運動、そして永久革命の書!
この書の文体は、見かけの均衡を破り、破壊にまで導き、そして新たな概念へと次々と接続していく創造的なものである。文体にはリズムと革新が満ちている。度々ヘンリー・ミラーが引用されることからも、破壊と創造と同時にやってのけるような迫力に満ちている。
「差異と反復」以来、ドゥルーズは常に一貫している。彼にとって、固定したものは何一つなく、全てが動き、流動している。全てがプロセスなのである。その過程を解放し、更に解放を推し進めていこうとする所に、この書の独創性と開放性がある。次から次へと諸説の引用がなされ、ドゥルーズとガタリの博識ぶりに圧倒されるが、一つ一つの意味にこだわらず、とりあえず読み進めてもらいたい。新しい概念がいくつも導入されているが、常に言っていることは同一のことであり、ワンパターンと言っても良いかもしれない。
とにかく、この書物の怒涛のリズムに身を任せ、新たな世界へと身を浸してもらいたい。
類稀な言語の交錯 ★★★★★
この本が「千のプラトー」と銘打たれたのにはさまざまな理由がある。
ここでいう「1000」という数は、無限に多いという意味の比喩として使われている。
なぜ規定の文字数しかない一冊の本が無限を生産するかといえば、
「抽象機械」という言語のある側面を抽象的に抜き出して使用しそれを連結させることで読み手自身にさまざまな意味の拡大を促すという「言語の自動生産装置」
によってこの本のすべての言葉が書かれており、それは無限に多くの意味の敷衍を可能にするからである。
この本は、著者たちが述べているように複数の書き手によって成立しており、
さまざまな分野の専門家からの手紙や文章を引用して織り成された複雑な編み物は、クロスオーバー的にさまざまな学問領域をひとつの文章の中で行き来する。
マラルメが「さいころの一振り」という詩で無限の数のフレーズを生み出したように、この本も読み手の使用の仕方によってさまざまに色を変える。
「強度」というキーワードは、著者たちの十八番なのだが、
張り詰めた糸の緊張状態、それ以上力を加えると崩壊し、限界まで力を加えなければまさに意味をなさない、という極限状態とあらわす。
「プラトー」とは地理学用語で平坦な高台という特殊な地形のことを指す。
つまり、言語の高台は先鋭化することも崩れ落ちることもなく、「強度的」に維持されている。
極限へ近づくということは微分的に漸近し続けている状態である。
クロスオーバーする言葉たちには読者が定位すべき場所を自ら作らなければ無限に運動を続ける。この著作に意味を求めるのであればそうする必要があるが、言葉の明滅を楽しむのであればその必要はない。
10年前に購入したが読み返すたびにさまざまな楽しみを生産してくれる。
慎重に ★★★★★
たとえば、戦争と戦争機械の違いについて、ただのアノミーと脱領土化の違いについて、著者たちは「慎重さ」を強調している。いわゆる現代思想の教養を振り回してなんでも分析するのではなく、分析する際の「慎重さ」。新たなる秩序を打ち立てたり、逆に、単なる混沌に陥らないために。

ネグリ/ハートの『<帝国>』と比較しながら読むと、ドゥルーズ/ガタリの思想の強靭さ、底の深さが浮かび上がる。オルタナティヴの必要を繰り返しながら、ポストモダンの現状を追認した分析になっている2000年代の本と、ポストモダンを予感しつつその先への手続きを模索する1980年代の本。現状追認分析と未来を招く分析。どちらがより遠くまで届くのかはいわずもがなです。「座右の書」決定。
回転する星座状の配置、この宇宙の作動音... ★★★★★
≪おのおのの抽象機械は、一つの変化の「プラトー」と見なすことができる≫(p.568)。
「高原状態(プラトー)――強度の一定した持続」(G.ベイトソン『精神の生態学』)。バリ島社会では争いから会話まで「クライマックスをプラトーで置き換える」。プラトーは、オーガズムの手前の絶頂状態も意味する。≪オルガスムは、自身の権利をあくまで追求する欲望にとっては、むしろ邪魔になる≫(p.180)。テクストの快楽ならぬ、欲望のテクスト(織物)としてのリゾーム(地下茎。これもベイトソン『Naven』からの援用)。止揚なき循環、一個の球体=器官なき身体。ルールも勝敗も無い、アリス風のゲーム。
‘抽象機械’という概念について、ガタリは自著で‘構造’と対比させている。「構造は外部から決定され、受動的」。対して機械は自らの内に強度的異質性を蔵し、それが自己組織化を促がす(固定した手順を繰り返す‘機械仕掛け’との違い)。ヴァレリー曰く「心理学が曖昧さから脱したいなら、‘それ’はなぜ‘動くのか’?と問う、つまり或る機械を想定するようになる」。M.ウェーバー曰く「実際に権力を握っているのは、政党を根っこから金銭や人事で支える人々、人間装置」、即ち機械。何らかの物や身体を構成要素としつつ、それらを配置する構造そのものを変化させる、抽象的な、非物体的な機械。
様々なものを‘~機械’と名付ける行為は、分裂症の‘言語新作’を連想させる。この「このうえなく発狂した概念創造の企て」(『差異と反復』)に対しては、概念を不正確に使っているという批判があるが、≪結晶作用が情念を生み出し、蜜蜂と蘭が一つの文字を横断する……。こうしたことは、何かの「ように」生じているのではない≫≪メタファーの廃絶≫(p.90)。一個の概念としての蜜蜂や蘭は、抽象機械としての宇宙の歯車であり、それ自身が一個の抽象機械なのだ。
ドゥルーズ=ガタリとネグリ=ハート ★★★★★
ちょうどネグリ=ハートの<帝国>が翻訳出版されたばかりで話題になっている。この「千のプラトー」と<帝国>をつき合わせて読むとよいのではないか。この本が23年前にどの地点まで到達していたのか、あらためて浮き彫りになることだろう。

「未知にして未踏の風景を包んでいないような顔は一つとして存在せず、愛したものの顔とか夢見た顔で満ちていない風景、来たるべき、またはもう過ぎ去った顔を繰り広げない風景など存在しない。混然となってしまった風景、海や山を想起させない顔があっただろうか、自分を補ってくれる顔、線や特徴からなる意外な補完物を与えてくれる顔を喚起しない風景があっただろうか」
(『千のプラトー』訳書p.198.原書p.212.)