こんな誤訳だらけの本をこんなに高い価格で出版するなんて
★☆☆☆☆
最近ハーヴェイの『新自由主義』を読みその分析の鋭さに感銘を受けたので、彼の他の著作をAmazonでまとめて購入しました。この本もその一冊。期待して読み始めたのですが、何やら意味不明な日本語の羅列です。これが他の著者の本であれば「ポストモダン関連の本だから」と諦めるところでしたが、今回は、あの明晰な『新自由主義』を書いた著者がこんな意味不明の文章を書くわけがない、と大学の図書館で原書にあたってみました。予想した通り、犯人は著者ではなく監訳者でした。他の方の書評に「経済学用語に非常に誤訳が多く」とありますが、誤訳は経済用語に限らないと思います。序論の冒頭から、「ジョナサン・ラバンの『ソフト・シティ』は、七〇代初期のロンドンの都市生活をたくみに擬人化している」という文章に出くわします。「都市生活を擬人化している」とはどういうこと?、と原文を見ると"a highly personalized account of London life"となっていました。要するに「ロンドンでの生活についてかなり個人的な語り口で綴った作品」ということです。この後に続くのが次のような文章。「ここでの私の関心は、それが書かれたのが一般庶民の世界でもアカデミズムの世界でも都市生活の諸問題が取りざたされていて、ちょうどなにがしかの変化が認められるようになっているときであり、それゆえにそれが歴史的里程標としての意味をもっているという点である」。段落の最後まで読んでもよく分からないので原文を見ると、要するにこの段落で言いたかったことは、ラバンの著作が書かれたのが都市についての語られ方に変化が見られた時期のことであり、その意味でポストモダンへの転換点を標す作品である、ということでした。とにかくこんな調子でずっと続きます。率直に言って、この訳書は「翻訳書」の名に値いしません。それこそ教室で学生がよくやる単語の「置き換え」を思い出させます。英文の単語一つ一つを日本語の単語に置き換え、それをつなぎ合わせた日本文をもって「訳」と称するわけです。その結果はたいていの場合意味不明瞭な日本文となり、「訳せますけど意味は分かりません」という弁明がつくわけですが。(1) まず原文の言わんとすることを正確に理解し、(2) その上でその意味を的確で分かりやすい日本語表現に移し替える、という翻訳の大原則が守られていないのです。それだけではありません。初歩的な文法上の誤りもありました。例えば訳書の20ページ冒頭に「われわれがポストモダン文化、すなわちポストモダンの時代に生きていると無理なく言えるような一九七〇年代初頭以降」とあります。これは "so 〜 that"構文の接続詞thatを関係代名詞thatと取り違えて起きたきわめて初歩的なミスです。こうした欠陥商品としか呼べないものを税抜きで6,700円の価格を付けて売っているのです。今は少し収まりましたが、当初感じたのは腹の底からこみ上げてくる怒りでした。監訳者はいったい何を監督したのでしょう。そして編集者は訳文をしっかりとチェックしたのでしょうか。なお出版社にはより詳細な批判のメールを送るつもりです。
かくしてマルクス主義は復活した
★★★★★
「新自由主義―その歴史的展開と現在」を読んでからこの本を読んだ。そしたらわかった。そう、つまり著者は先の本と本書とで以ってマルクス主義の復活を高らかに宣言したのである。
マルクス主義は'58のスターリン批判で評判を落とし、
70年代に構造主義者達から史的唯物論が批判され苦境に陥り、
90年代の冷戦終結で息の根を止められた。
と誰しもが感じたのであったが、そうではなかった。
70年代後半から80年代にかけて顕著になったポストモダンの心性をそのまま吸収したのが新自由主義という資本家階級が用意したリーサルウェポンだった。それはヘゲモニーを獲得し新保守主義と新帝国主義をも結合させてグローバルスタンダードになっているというのがハーヴェイの論旨である。
資本主義世界の時計の振り子は40年代から50年代にかけてはケインズ的修正資本主義という「左側」に振れていたのに対して現在は新自由主義という「右」に行っている。再び装いを新たにしたマルクス主義思想が時計の振り子を左に持ってゆく日が来るのかもしれない,というのは楽観的に過ぎるかもしれないが、そんな予感を感じさせてくれる書物であった。
フレキシブルな蓄積とポストモダニズム
★★★★☆
フランス生まれのポストモダニズム思想は、1980年代に英米圏の思想系・社会科学系の知的世界であっという間に支配的潮流となった。古典的なマルクス主義や近代啓蒙思想などは近代主義として投げ捨てられるか、「脱構築」されてしまい、社会科学的知は、不平等な現実世界と対決する手段よりも、普通の人には理解不可能な専門用語を操る知的遊戯に堕した。
こうした傾向に危機感を募らせてそれと知的理論的に対決しようとした英米圏の左翼知識人はあまり多くない。イーグルトン、ジェイムソン、カリニコス、そしてハーヴェイである。
この4人の中で経済学者はハーヴェイだけであり、彼は、ポストモンダイニズムを批判しつつも、そうした潮流の発生の根拠を、資本の蓄積様式の変化とそれにともなう時間と空間の経験の変容に求める。前者においてキーワードとなっているのが、「フォーディズムからフレキシブルな蓄積へ」である。主に文化と思想の領域で語られてきたポストモダニズムを、都市論と経済地理学の立場から論じている本書はなかなか斬新である。
惜しむらくは、経済学用語に非常に誤訳が多く、肝心の経済学的記述がかなり意味不明になっていることだ。たとえば「量的フレキシビリティ(numerical flexibility)」が「数値で示されるフレキシビリティ」(202頁)と訳され、普通に「企業(corporation)」と訳していい単語が「法人」と訳されている。
読者に不親切な構成になっているのもいただけない。引用文の最後に書名も示さずいきなり(邦訳、〜頁)とある。これが何の著作なのかを調べるには巻末の「参考文献」を見ないといけないが、そこでは筆者名が原語でしか出ていない。
たとえば冒頭でラバンの『ソフト・シティ』からの引用があるが、「ラバン」の「ラ」がLなのかRなのか知らない普通の読者は、「参考文献」を調べて訳書を特定するのに非常に苦労するだろう。どうしてこんなに不親切な構成にしたのか理解に苦しむ。本書におけるハーヴェイの姿勢と根本的に対立する傲慢さだ。
ポストモダニズムとポストフォーディズム
★★★★★
今日を統べるイデオロギーたるポストモダニティの存立条件は、「時間による空間の絶滅の追求と回転時間の縮小を絶え間なく追い求める資本蓄積の圧力から生じた時間−空間の圧縮の連続した波動の、歴史的コンテクストにいちづけられる」かくして、マルクス主義的、史的唯物論的見地から、ポストモダニティの今日の興隆を捉えようとしたのが本書である。1970年代の世界資本主義の過剰蓄積の危機が、時間と空間の経験の変容、科学的判断と道徳的判断への結びつきへの確信の崩壊、関心の倫理から美学への移行、はかなさと断片化が永遠の真理と統合された政治よりも上位化すること、そして解釈は物質的、政治的・経済的なものではなく、自律的な文化−政治諸実践によってなされるようになった。後にネグリが「帝国」においてポストモダニズムとポストフォーディズムの親和性を指摘するのに先んじて、ハーベイはポストモダニティを歴史的な存在に位置づけようとする。マルクス主義の射程を、時間−空間論、地政学的アプローチへと広げ再解釈ことで豊饒化しようとする本書の試みは、ポストモダンに対して両義的な評価を与えうる視座を提供してくれる。また、グローバルなの諸実践を、陳腐な還元主義ではなく、時間による空間の制覇の諸実践と捉えることで、文化的、政治的、経済的、すなわち全面的なグローバル化=現在帝国主義批判の視座を提供してくれている。グローバリズムを論じる上では不可欠の一書である。