私も君も、実はゾンビなのだ!?
★★★★★
「はじめに」で語られるように、本書は我々が通常抱いている意識に関する常識、すなはち「脳が意識を生み出している」という世界像を打ち壊し、何故我々はそういう世界像を創り上げたのかを明らかにすると共に、その世界像が我々には必須でありかつ、それが我々の現実をも作り出していることを明らかにする。
永井は言う。覗き込んで「意識体験」があるかないかを観察するすべがないのは、何も犬の脳だけではなく、他人の脳ですらそうなのであって、「他者もまた私である」と言えるのと同様、我々はみんな意識を持っていると言えてしまうのは、全ては「言語が見せる夢」なのだ、と。つまり、『意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもある』のだ。
最後に永井は、『この問題はエゴイズムの問題などとも同型で、もっとも本質的な問題だ』としており、あたかも道徳の存在すらも「言語が見せる夢」なのだと言わんばかりで、刺激的だ。
大学での講義に基づいた著作と言うことだが、哲学の現場に立ち会う臨場感に溢れた好著だ(H21.4.5)。
言語の本質
★★★★★
「意識(クオリア)」の位置づけ ―「公的探究そのものが不可能」、
「(公的探究が)できないからこそ他者」― が格好良かった。
「意識は身体内の物理的機能に付随しないことが可能」故である。
ところで、たとえ公的探究ができる対象であろうと
「そもそも二人が同じことを言っているということ自体を認めない」独我論が私には合う。
「アプリオリ(経験的探究に先立って予めそう知られている)には
知りえない必然的真理(「水はH2Oである」「熱は分子運動である」)がある」故である。
こうした「アポステリオリ(経験的探究によってはじめてそうとわかる)な必然的真理」によって
それまでアプリオリだった必然的真理は、「アポステリオリで偶然的な真理に転落する」。
必然から偶然への転落・・・ 著者のコメントがいい。
「われわれは世界を、われわれなしに完結したものとして捉えたいという根本衝動を持っている・・・
世界のあり方それ自体は、われわれの認識の仕方から切り離されていなければならない・・・
偶然的事情とは関係なく、それ自体として存在して、それがたまたまわれわれにあのように感じられる、
のでなければならない」
「われわれが、世界のわれわれへの現れ方を、世界そのものではない、
世界そのものからすれば偶然的なものとして、世界の中に位置づけたい、という欲望を持っている」
いやいや、「意識」こそが全ての存在の根源では
★★★★☆
恐らく、この本を読むきっかけを持つ人は、「意識(Consciousness)」とは何か?という問題「意識」を持った人でしょう。この文章も問題「意識」という表現が自明であるかのごとくしており、自己矛盾をはらんでいそうですね。哲学者でかつ認知科学者(?)のDaniel Dennettは「Consciousness Explained(意識解明さる)」を1991年に書いて、「意識」はNeuroscienceで説明できるはずとの唯物論的解釈を示した、と理解します。私(Dennettと同じ歳です)の短絡的解釈では、彼は、「意識」というものが存在するとしたら物理学の「エネルギー保存則」に抵触することになり、従ってそんなことはあり得ない、と言っているのだと思います。哲学者永井均氏も、この本の副題にあるとおり、「意識」なんてものはないとの主張をしているようです。その根拠はこの本を読まれれば解ることでしょう。
さて、「意識」の起源の問題は、いまや学際的なテーマとなり、たしか、D. Chalmers の提唱で1996年以来2年に一度国際会議が開かれているほどで、物理学者もこのテーマに取り組んでいます。永井氏のこの本に出てくる「ゾンビ」はChalmersがこの分野で使い始めたものです。
もう一度、さて、これらの唯物論的な主流派の「意識」の起源解釈に対して、全く逆の考え、「意識」こそが、全ての存在の起源である、という考えもあることを紹介しましょう。このような解釈は、昔、「意識」の存在を想定した哲学者や心理学者の解釈のように聞こえるでしょうけれども、私が紹介したいのは、米国の作家・詩人で霊媒(チャネラー)の能力を持ったJane Roberts (1929-1984)が、いわばあの世からSeth(セス)と自称するEntityからチャネリングによって伝えた膨大な資料(Seth Material)で、Sethが説明した「意識」とは何か、です。これらの資料は本として出版され、手っ取り早くは、www.sethcenter.comに全てあります。現時点では日本語訳は「セスは語る(Seth Speaks)」(原書1972年/訳本1999年)のみがあります。要約するとセスは、「意識」とは何かを次のように説明しています。
(1) 「意識とエネルギーと物質とは、同じものが物理次元に顕れた別々の表現であるが、最初に、意識こそが精神エネルギーを物理エネルギー・物質化して、物理世界が顕れている。」(Einsteinはこの表現から「意識」を取り除いた部分をE = Mc^2と理論的に導いたのでした。科学者は更にがんばって、「意識」も入れなければならないと、セスは激励しています。)(2) 「意識の根源は、Basic Unit of Consciousness (CU)であり、あらゆるものは、無数のCUの結合によって出来ている。」(3) 人の言う「魂」も、CUから構成され、不滅である。「死」とは単に、「意識」がその物理世界への表現を「停止」したことに過ぎない。(4) 地球上のあらゆる生命種は、「意識」が物理世界を創造して(従って、我々の物理宇宙はその表現の一つに過ぎない。UFOが飛来してくるのは、技術の進んだEntityが次元を超えて別の宇宙から来ている)、その「表現」を開始したその時点から存在し、それらが、それぞれに「進化」したものである(Darwinの進化論は当たっていない)。「人」の最初の先祖は、いわば「Sleepwalker(夢遊歩行者)」のようなもので、未だEgo Consciousnessが発達していない状態のものである。(5) 科学者のいう「唯物論的・客観的世界」などはなく、存在するのは、全ての生命がそれぞれに創り出す「主観的世界」であり、その世界は、それぞれの生命には知覚出来ない速い周波数で振動している。この世界観は、Berkeleyの「独我論」とプラトンの「イデア論」を融合したような世界観といえそうです。等々。
(4)のSleepwalkerは「ゾンビ」に例えてもよいでしょう。「意識」に関してほとんど知らない我々は、セスの説明する「意識」の起源が「無意識」の世界にあることを理解するのは、ほとんど我々の「知的限界」を超えているといってよいでしょう。以上。
私的言語は不可能、と私は思う
★★★★☆
著者は本書末尾、「この講義で言おうとしていることは、言い得ない」と種明かしする(p157)。これは言語が第0次内包の相対化であり、その内部に消去されたものの痕跡は残らない、という主張と対応する(p68)。また自分の知覚を言語報告する場合、私は自分を他者化(=ゾンビ化)し全面的に志向的になる、とも(p131)。
他方、私は言語化が消去するものと作り出すものを常に同時に生きている、とある(p68)。もし記憶が言語的なら言語の今秘性が成立し、われわれは過去の自己に対して他者=ゾンビになってしまうから、記憶は言語的ではないと言うが(p107)、これは第0次内包の特権性を確保すべきという著者の要請とも思える。
かくて著者は第1次内包から出発し、遡及的に第0次を見出すという弁証法的・脱構築的戦略(piii、p156)を採る。これは幼児が他者とのコミュニケーションによって言語的世界(第1次内包)に参入し、その後に逆転が生じ「(第0次内包を語る)私的言語の可能性が言語にとって不可欠なものに転じることによって言語は完成する」(p36)という発達心理学的な筋書きと重ねあわされる。第0次内包は<これ>としか名指しえぬ独在性であり、言語の全体はこの内部にしかない。そして比類なき唯一の<これ>は探究を通じ、「世界の中の一個物に同定」(p145)されるという第2次内包の発見に至る。このあたりは、象徴界の問題として解釈できる。
結局、脱構築特有の回りくどさと、独我論と戯れる不健康な語り口を除けば、それほど複雑な話でもない。ま、コミュニケーションの世界にはゾンビしか住んでいない、ってこと。ただ私としては、どうせ伝達不可能なんだったら第0次内包の前提など不要ではないか、とも思う。独在性なんてホントにあるのか? …と。
山カッコの<私>がついに消える
★★★★★
永井氏が一貫して追究してきた「私の独在性」の問題を、新しい材料と切り口から考察した新著。デイヴィッド・チャーマーズの大著『意識する心』を批判的に検討しながら、新しい語り口で問題が定式化し直される。そのポイントは二つあり、(1)過去・現在・未来という時制が一本の線形時間に並ばずに累進的に下降し続けるマクタガートの「累進モデル」を、「私」に適用して、「私」と「他者」は同一平面に並ばないことを示したこと、(2)「私」を「第ゼロ次内包、第一次内包、第二次内包」の三つに区別し、言語による志向性の文脈だけでなく、現実性−可能性という様相文脈も合わせて統一的に論じたことである。前著『私・今・そして神』では、独在的な<私>の「開闢」であるライプニッツ原理が、その<私>を「われわれの中の一人である私」に客観化してしまうカント原理との対比で語られた。本書では、その対比がさらに洗練されて提示される。世界はどこまでも「私に」現れるものであり、他者もまた「私に現れる光景の中の一要素」でしかないのだから、この光景の全体(=私の意識)が、光景の中の一要素である他者に属するはずはない。だから「他者にも意識はあるのか」という問いは、もともと誤った問いなのだ。にもかかわらず、「私の意識」もまた「各人のもつ意識」の一例として、one of themになってしまうのは、私が根底から言語化されており、「言語が見せる夢」(p146)のせいである。この論点を詰めた本書では、永井氏が愛用してきた山カッコ付きの<私>はもはや登場せず、一切の記述を廃した<これ>に取って替わられる(147)。