「開闢の奇跡」をめぐる著者の身悶え感
★★★★★
平たく言うと「語る私を含んだ世界を語る私…」という自己循環的な問い
の構造を持つ哲学的思考。無根拠であるがゆえに問いの足場を自明なもの
と思い込むため巧妙に避けてきた「開闢」について真正面から格闘した本。
「私」と「今」も「神」も、世界を語ろうとする時に何かを隠蔽するの
痕跡、陽炎のようなもの。
語りずらいものを語らねばならない「身もだえ」感と、思索途中の荒削り
感もあり、非常によみづらく、新書らしからぬ難解さを感じるはず。
ただ、「世界について思考するその思考のあり様」について思索した経験が
がある方には、著者のこだわりに割とすんなり付き合えると思います。
記述の束に還元しえない「固有名」の過剰性は、言語が例外的に「この」性
の痕跡をまとった特異性にあるのでは?なんてネ。
「生成の奇跡の連続」と、ある巨大な隠蔽(の影)
★★★★☆
「カント的問題にライプニッツ的問題を接続する」(本書P.185)とは、
「驚天動地」(同P.141)で「空前絶後」(同P.141)の「生成の奇跡の連続(私の言葉です)」というこの事態と、
可能世界からこの(この、この、この‥‥)現実世界へ、そして必然世界へと移行していく事態を、「時間」という概念を発明し、説明しているだけに過ぎないのに、その事実が隠蔽下にあるこの事態を、
(いったい誰が発明したのか、隠蔽しているのは誰か、を説明するのに、「神」という概念は必要ないと思います。「発明者」「隠蔽者」「発明者兼隠蔽者」という概念で充分だと思います)
「つなげる」ということでしょうか‥‥。
(そうでなければいったい何の作業なのか、私にはわかりません)
また、その作業に、言語は必ずしも必要でしょうか?
言語以外でこの作業はできない、と言い切れるでしょうか?
わたしは、言い切れないと思います。
(と、言語でしか現せないもどかしさ。隔靴掻痒の感、です)
いつでも編集可能なインターネット上のレビューという性質上、私は後に、最後の「言い切れないと思います」の「思います」を、「感じます」と編集してしまう、自分で自分を「あの時(!)は『思った』のではなく、「感じた」んだよ」と説得(洗脳)してしまう、ように(私は)予見しました。
すなわち、記憶の「編集」(!)。
それを防ぐために、今(「厳密には『この今』では、ありません」)この部分を書いています。
「感じ」=知覚(すること)の問題、に、すりかえたくないのです。
上記の文章はすべて、私の持つ本書、初版第一刷のものに基づいて書かれました。
揺れて開闢
★★★★★
永井の著書を読んで思うのは、星五つをつけたくなるくらい、ほとんど完璧に間違っている、という感じがしてしまうところ。しかし、完璧に間違っていることと、完璧に正しいことって、どう違うのだろう。
この後に出た『なぜ意識は実在しないのか』では、もっと上手いこと説明されているように感じたのだが、永井の言うことはことごとく、この「完璧に間違い--完璧に正しい」の間の揺れに発してると言っていいんじゃなかろうか。
---以下引用(P157)---
デカルトは、言葉の上で彼とまったく同じ方法的懐疑を実践し、言葉のうえで彼とまったく同じ結論に達した、彼ではない人物がいたら、その人物の「私」の存在も自分の存在と同じように疑いえないと言うだろうか。デカルトは、その人の思索を「その人思うゆえにその人あり」とは捉えずに、「我思うゆえに我あり」と捉えるだろうか。デカルト自身のテクストは両様の解釈をゆるすと私は思うが、彼のこの揺れはきわめて本質的な問題と関連しているだろう。
---引用終わり---
永井の言う「デカルトの揺れ」というのは、私にとっては永井の記述が「完璧に間違い--完璧に正しい」の間を揺れ動いていることに相当するとしか思えない。
それから、89ページに『・・・現実に存在するということは他のあらゆる事実とまったくちがう種類の事実である・・・・。だから、現実のこの世界は、現実に存在するという性質を奪われても、内容的にはまったくそのまま、神の知性の中に存在することができるわけである。』、と書かれているけど、「現実に存在する」ということが、他のあらゆる事実とはまったく違う種類の事実であるにもかかわらず、与えたり奪ったりすることのできる性質を持っているという点では、他の平凡な事実と違わないというのは、いかにも都合が良すぎる気がする。
「現実に存在する」ということは(「現実に存在する」という性質であれなんであれ)“性質”を持っているんだろうか?ここには、なんだか、重大な問題が潜んでいる、という気がしないではない。
哲学はまだ始まっていない!?
★★★★★
平易な語り口で極めて質の高い哲学的問いに挑む、永井氏の新著。「開闢」とは「私」の事であり、さらに「今」の別称でもある。言葉によって「私」を理解したとたん、「私」はその本質を失ってしまうというパラドキシカルな「私」の構造。或いは、言葉の持つ共通理解という本質的機能が唯一無二の「私」と言う存在の理解を阻むと言う矛盾。永井氏がひねもすたれながす哲学的思索は、私がその言わんとするところを捉まえたと思った瞬間、まさにパラドキシカルな「私」の構造と同じように、私の手から零れ落ちてゆくようだ。かなり難解な問いも含むまれるが、知的誠実さを貫く哲学者永井均氏の最新の思索の痕をたどれる好著だ。小さいながら相当に歯ごたえのある本で、その点心して読まれたい(H19.4.11)。
哲学をするための本
★★★★★
正に哲学をするための本であり、「ゆっくりとしか読めない」との書評は的を得ている。読みつつ著者の思考の錯綜につき合う必要がある。「「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、〈私〉とか〈今〉とか、いろいろな名付けがなされていく」という記述は印象的。第1章では、「私」と「今」の違いについて、「今」は客観的な時間点であるが「私」は客観的な空間点ではないことを指摘するが、「今」を「私の今」とみることでその違いは薄まる。これらは、世界の内部を支配する条件の側から存在と持続の基準が与えられるというカント原理と、何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だというライプニッツ原理の対立軸のうちに表現される。「マクタガートのパラドックス」については現時点で十分な理解が及ばず、外にも読後において再度読み返したいと思える要素がある。また、ウィトゲンシュタインの哲学は、本書において通奏低音的な役割を果たしているように思えるのだが、その点は同じ著者による「ウィトゲンシュタイン入門」を読むことでより明確になるのだろうか。