私はどうして私?
★☆☆☆☆
永井氏が子供の頃から抱いていた問いを、彼が時を経て、分かりやすく定式化することによって自らにもう一度刺激を与えようとしたマスターペーションの書である。「子供のため」というのはおそらく出版社がつけたタイトルであり、実際は子供が読める本ではない。きっと出版社が多くの年齢層の手にとってもらおうと思ってつけたのでしょう。どこの出版社?私はこういう出版社が大嫌いです。
「自分が他人ではなくどうして私なのか」といった自己の根拠の問いは、南直哉氏(曹洞宗の僧侶)によれば仏教の中核の問題だそうです。この問いは特別な問いではなく、この世に投げ出された人にとっては普通の問いのはず。永井氏だけの問いではないし特殊な哲学の問いでもない。大抵の人は「根拠のない」自分に耐えようとして一生懸命身の回りのことに煩っている。それにも耐えられない人は宗教への道へということになる。
真剣にこの問題と向き合い、もし自分に根拠がないと分かったら「生きるべきか死んでしまうべきか」という深刻な選択に通じてしまう。永井氏は子供のころこの問いが独我論という思弁的な関心に結びついていたそうだ。ここのところが哲学者の永井氏らしい。「私が私であること」が「奇跡」だという明るいマスターペーションで終わっているのがいい。
後半の問いは「何故悪いことをしてはならないのか」である。私にとっての不思議は現在こういう反社会的とも言える問いが当たり前のように跋扈していることである。自分の存在に根拠がなければ善悪の行為に根拠があるはずもない。そんなことは誰もわかっている。「悪いことをしてはならない」のではなく「してはならないことが悪」といわれるのである。人間の尊厳や人間への尊敬なしにどうやって善悪を語ろうとしているのか?
共感と警戒を感じて
★★★★★
非常に興味深く読めた。共感と警戒について述べたい。
共感。
本書で著者は哲学の出発点を徹底的に主張していると読んだ。著者にとっての哲学の出発点とは とことん「自分が抱いた疑問点」である。その「疑問点」は極私的なものであったわけだが(というか あらゆる「自分の疑問」とは極私的であると言っても良い) その「極私的疑問点」を「極私的」に突き詰めて来たら こうなりましたということが本書の主張だと思う。もっと言うと 哲学とは「極私的な疑問を極私的に突き詰めざるを得ない病気である」というように本書を読むことが 僕が「極私的に」本書を読む上での唯一の方法だと思った。
その点には非常なる共感を感じた。現代思想の流行動向といった「マーケット」で 「極私的な哲学」=「自分自身」に値段やレッテルを貼られてたまるものかと断じる著者の啖呵は気持ちが良い。
警戒。
著者は 「自分で突き詰めてきた極私的な疑問」とは何かということに関して 僕の共感を得ようとは思ってはいないだろう。しかしこうやって「突き詰めてきた」という「経緯」に関しては 僕の気が付かない内に 僕の共感を得ようと思っているのではないかと感じた。
まさに その著者の「登山ルート」こそが 本書の醍醐味だと思うが、ここで僕は若干 自分に対して天邪鬼になる場面だ。「登山ルート」自体も無限にあるわけであり 本書で著者が描いた「ルート」に 自分が「賛同」してしまったら その瞬間に「極私」から「公」になってしまうのではないかということだ。
そこに著者の罠があるのかもしれないし、もしかしたら「そういう罠にも気を付けなよ」という著者の愛情もあるのかもしれない。「罠」に気が付くには まず「罠」に引っ掛かる経験が必要だからだ。
こういう本があるとは知らなかった。今回読む機会を得て本当に良かったとしみじみと思ったことを最後に付け加えておきたい
この本は役には立たないよ。
★★★☆☆
「哲学は役に立ってはいけない」
「役に立たないことが唯一の意義だ」
って言っているからね。
よき人生を求める青年の哲学、よき社会を求める大人の哲学、
よき死を求める老人の哲学とちがって、
<子ども>の哲学は、何もよきものを求めない。
ただ単に本当のことを知りたい、
知ったからと言って役に立つわけではないけれど。
そういう純粋な哲学について、真っ直ぐに書かれた本。
役に立たないものを、面白いと感じることができる人だけ、
読んでみて欲しい。
ぜひ読んでみてほしい
★★★★★
本書は著者が小さい頃疑問に思っていた2つの難問、「僕はなぜ存在するのか」
「なぜ悪いことをしてはいけないのか」について考察している。
哲学とは自分にとって切実だと感じる問題を徹底的に考え抜くことであるので、
自分自身の問題でなければその問題の意味さえよくわからないだろう。私にとっては
「僕はなぜ存在するのか」は大きな問題だったので永井氏の議論は非常に共感できた。
永井氏の言う「<ぼく>とは自分の肉体や自我とは別にそれらをそっと感じている、
霊のような存在だ」という感覚は私にも強くあった。私が霊の存在に肯定的な
理由だ。一方この問題に興味がない人にとっては数十億存在する人間の中でなぜ
<ぼく>が人間××××を引き受けているのかという疑問を疑問とも思わないようだ。
いずれにしろ本書を未読の方はぜひ読んでみてほしい。
哲学と感情
★★★★★
『子どものための哲学対話』と並んで、永井が書いた中でも最も読みやすい哲学入門書である。
哲学を始めるためには哲学を知らないことが絶対条件である、と永井は別の本で言っているが、その通りまだ哲学を知る前の<子ども>だった永井が抱いていた二つの問題を軸に本書は展開する。「ぼくはなぜ存在するのか」「悪いことをしてなぜいけないか」
永井ファンにとってはおなじみの哲学が、これ以上ないくらい分かりやすい語り口で紹介されているが、個人的に最も興味をそそられたのは哲学の議論に対する永井の考え方であった。永井は言う。「哲学の議論は一般の議論とは逆に、自分では気づいていない自説の難点を相手に指摘してもらうことだけを目指して行なわれる。これは一般の議論における公正な態度と誤解されがちだが、そうではない。単に利己的なだけなのだ」そして故大森荘蔵が徹底的に哲学的だったと言う。「大森は自分の哲学が有効に論駁されることにしか興味がないようであった」
理屈は分かる。自説が肯定されることは感情的には喜ばしいことかも知れないが、真理の探求という営みにとっては何のメリットもない。むしろ自説の弱点を指摘してもらい、場合によっては自説を放棄させられるぐらいの方が、少なくとも誤った自説に固執するよりははるかにプラスになる。そういうことだろう。
しかしそんなことが本当に可能なのだろうか。感情を排して批判を受け入れるということが。
本書の中で永井は自説に対する竹田青嗣の批判を紹介し、その批判が的外れであることを指摘している。永井の言い分は正しいと思うが、その激しい物言いは、永井の上の主張にそぐわないような気もする。
哲学と感情は決して無関係ではなく、切り離すことはできないのではないだろうか。「情」は「知」に先行し、哲学とは感情に基づいて形成されるものではないだろうか。哲学そのものよりも哲学と感情の関係について考えさせられる一冊であった。