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日本に古代はあったのか (角川選書)

価格: ¥1,680
カテゴリ: 単行本
ブランド: 角川学芸出版
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【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:井上章一/著 出版社名:角川学芸出版 発売所名:角川グループパブリッシング(発売) シリーズ名:角川選書 426 発行年月:2008年07月 関連キーワード:ニホン ニ コダイ ワ アツタ ノカ カドカワ センシヨ 426 にほん に こだい わ あつた のか かどかわ せんしよ 426、 カドカワガクゲイシユツ カドカワグル-プパフ 0946 かどかわがくげいしゆつ かどかわぐる-ぷぱふ 0946、 カドカワガクゲイシユツ カドカワグル-プパフ 0946 かどかわがくげいしゆつ かどかわぐる-ぷぱふ 0946 私たちの歴史観は、時代区分の位置づけにより大きく左右される。日本では明治以後、武家の台頭が中世の起点となるが、中国の中世は日本より数世紀先んじている。一方、西洋には古代がない国もある。ユーラシアの東端にある列島は世界史のなかにどう位置づけられるのか。律令制、荘園制、封建制など、さまざまな観点から時代の変わり目
時代区分と思想 ★★★★☆
 前半が時代区分をあつかい、後半は関東史観をのべる。
 時代区分は思想の問題であって、「どうでもいい」というわけにはいかない。それは社会の見方であって、その社会・歴史がどのような形態を持って成立しているかに関係する。どの時代も一定の連続性をもっている。それに見合う形で時代区分がなされなければならない。もし区別がなければ、社会は一つ不変な連続性(同一性)になってしまい、漠然とした茫漠たるものになってしまう。つまり考察対象を失ってしまう。区別や区分があることによって初めて、対象を認識できるのである。
 だから、「公家の古代」と「武家の中世」の区別が問題となり、それが鎌倉期において典型的にあらわれてくるのである。それゆえに井上は鎌倉時代を大きくとりあげるのである。だが、それ以上に内乱期の応仁の乱を重視することによって、中世と近世とに区分する。それはイデオロギーの問題ある。したがって、そこに関東史観がこれまたイデオロギーとして浮上してくるのである。
歴史学者には書けなかった時代区分 ★★★★☆
日本に古代はあったのか、という書名は確かにセンセーショナルな響きがありますし、本書を貫く「関東史観」への批判は、東大学派と京大学派の対立構造まで浮き上がらせているわけで、大変興味深く最後まで読みました。
何の疑問も持たなかった事柄についてこれだけ論じられるとしっかりと正対しなくては、という気分にさせられる書籍でした。

学習指導要領の時代区分での中世の始まりは院政期前後を区切りとしていますので、昔のような鎌倉幕府の成立からではありませんし、近世の始まりはヨーロッパ人の来航からになっており、これも江戸幕府を起点にしたものではありません。
このように歴史研究の深化によって、時代区分の認識の変化もありますが、日本に古代がなかったのでは、という概念は斬新でありかつ歴史学界ではマイナーなものだと言えるでしょう。

宮崎市定や内藤湖南の中国史や伝統的なマルクス史観に基づく西洋史との比較、皇国史観の張本人のような平泉澄と戦後の史学会に一石を投じた斬新な石母田正との対比など魅力的な話が続きます。ライシャワーの封建制と梅棹忠夫の文明の生態史観との関係も興味をひきました。
時代区分の実証の粗さとは別に、ダイナミックな捉え方をする歴史観の組み立ては斬新で新鮮な感覚でした。

章立ては、宮崎市定にさそわれて、内藤湖南から脈々と、ソビエトの日本史とマルクス主義、弥生に神殿はあったのか、キリスト教と仏教と、応仁の乱、鎌倉時代はほんとうに鎌倉の時代だったのか、江戸から明治の頼朝像、ゲルマニアになぞらえて、平泉澄と石母田正、東と西に歴史学、京都からの中世史、ライシャワーの封建制、司馬遼太郎よ お前もか、梅棹忠夫のユーラシア、でした。
「歴史」が常に相対的にしか見られないことを思い出させてくれた。 ★★★★☆
日本史が、アジア史、否、世界史の中の一部に過ぎないのならば、井上氏の論は実に自然に納得できる。むしろ、中高という学校教育を強制的に受けざるを得なかった頃の、常に抱き続けた違和感を、この本でやっと払拭できた。何の根拠があって、日本史だけが特別の歴史区分をしなければならないのか?歪んだ歴史教育のために、日本がアジアの一部であるという視点を失っていたことに気づいた。
「東大対京大」というのは、本書を読み易くするための挑発的きっかけ程度と考えてもかまわないだろう。おそらく「東(あずま)文化」への事大主義的な傾倒に対する警告と受け止めた。
異常なまでの東日本起源の文化論は、藤村新一氏の旧石器捏造事件や、それを易々と容認した日本の考古学会の体質を彷彿とさせる。
ますますの大風呂敷に期待 ★★★★☆
 東大系の学者ならとても書けないであろうスケールの大きさとアバウトさ(?)に、さすが京大といたく感心した次第です。その意味で、本文にも数多く登場する宮崎市定博士や梅棹忠夫氏・梅原猛氏らの伝統は著者井上章一氏に受けつがれたと言っても過言ではないかもしれません。ただ、これだけ東大への敵意をむきだしにされると、その東大にはおいていかれ、一橋や東工大に並ばれつつある(あくまで偏差値レベルの話です)京大の断末魔の叫び声のような気がしないでもありません(京大の人、ゴメンナサイ)。
 日本の中世の始まりを平安時代においたり、さらに進んで、日本に古代はなかった、とするには、さすがにもう少し緻密な論証が必要でしょうが、少し前に読んだ、東大系著者たちによる新入生ブックガイドの鼻もちならないエリート臭さ(たとえば東大出版会以外は出版社でないような)に辟易させられていただけに、いささかの爽快感を感じたことも事実です。
 最後に、この本にも出てくる、石井進氏の『鎌倉幕府』(中央公論社)、これは名著だと思います。名著には大学名など関係ありません。今から約40年前に次の展開をワクワクしながら読んだこの本のことを懐かしく思い出しました。これからも井上章一氏のますますの大風呂敷を期待します。
快著?怪著? ★★★★☆
東大系の学者と京大系の学者の時代区分のちがいを手掛かりに日本史のあやうさを説く本とみた.日本が日本になったのは唐にならって律令制を制定し,班田制を施行してからである.それ以前はなんだったのか?それを古代と措定すると中世がいつはじまるかという問題がでてくる.開始時期は荘園の成立をメルクマールとする平安中期説から太閤検地まで下げる安良城説まで諸説ふんぷんである.井上の大胆なところは唐の制度を引き写しに7世紀に成立した国家はそもそも古代国家でないのでないか,と考えたところにある.(内藤=宮崎によれば,中国では古代が漢で終わっているから.)井上が指摘するように日本では原始社会から古代を飛び越して中世に入ったとする説はソビエト科学アカデミー版の世界史につとに記されている.(60年代には翻訳が出た筈)だからなにも新説というわけではないが,東洋史と日本史の不整合を誰の眼にも解かりやすく説いたのは大きな功績.日本国家が成立したということは日本が唐を中心とする東アジアシステムの[半周縁]に組み込まれたということに他ならない.書名が「古代に日本はなかった」ならいっそう内容にふさわしい.