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ヘ-ゲル『精神現象学』入門 (講談社選書メチエ)

価格: ¥1,680
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: 講談社
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【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:長谷川宏/著 出版社名:講談社 シリーズ名:講談社選書メチエ 153 発行年月:1999年03月 関連キーワード:ヘ-ゲル セイシン ゲンシヨウガク ニユウモン コウダンシヤ センシヨ メチエ 153 へ-げる せいしん げんしようがく にゆうもん こうだんしや せんしよ めちえ 153、 コウダンシヤ コウダンシヤ 2253 こうだんしや こうだんしや 2253、 コウダンシヤ コウダンシヤ 2253 こうだんしや こうだんしや 2253 1807年。哲学界に未曾有の書が現れる。「無限の運動」の相のもと、およそ人類がもつ、知の全貌をとらえる究極の書。目前の木の認識に始まり、世界全体を知りつくす「絶対知」にいたるまで。文明の始原から近代ヨーロッパの壮大な知まで-。人間精神のあらゆる領域を踏破する、哲学史上最難解の書を、「ヘーゲル翻訳革命」の著者が、明快に読みつくす。 第1章 『精神現象学』のむずかしさ第2章 意識の根
『精神現象学』 登山ガイドマップ ★★★★☆
まだこれから『精神現象学』を読もうとしている者にとって、本書がどの程度「入門」というに相応しいかは残念ながら読後もよくわかりません。

しかし、『精神現象学』を高く聳える山に譬えるとするなら、これから登ろうとする者にとっては本書は、少なくともその「長谷川ルート」に沿ったガイドマップにはなっているように思われます。

その踏破が何ゆえ困難とされるのか、という全体像の説明から、登山道に沿って途中の風景描写も交えながら難所についての注意点などが述べられているといった印象です。

具体的には、

『精神現象学』が難しいのは、当時のヘーゲルの37歳という若さ、その噴出する思考エネルギーに関連しているようです。ヘーゲル自身が考え出した構成や筋道があるにしても、具体的な場面で考察する段になると、その思考がその構成を食い破り当初の筋道を外れるべく自分を押し通そうとして、時にはあてもなく否定の思考を重ねて迷走するかに見える叙述に付き合わなければならないというのが『精神現象学』の読解を難解たらしめているとのことです。

ヘーゲルがこの哲学作品の主役に「意識」を抜擢したのは、世界の全体に行き渡る否定の力を濃縮された形で個々の場面で発揮するのが人間の意識だと認めたというのがその理由とのこと。

『精神現象学』の眼目は、その意識が「絶対知」を目指す経験の旅の道中、疑いや絶望に何度も見舞われる経験を経て、意識の知と思考が次第に豊かになっていく、その成長過程にあるらしい。

以下の内容の用語の説明もあります。

主体:自分を含む世界のうちに一定の秩序が与えられた時、そこに安住することができず、それを打ち壊して新しい秩序を生み出そうとする力を持つものの総称。

精神:単なる生命の関係を超えた人と人との関係を、ヘーゲルは「精神」と呼ぶ。

観念論:ヘーゲルがこの用語で想定しているのは、主としてカントとフィヒテの哲学。

疎外:一般的な意味の外、人格が己の抽象性を脱却し、共同体の精神となる過程をもヘーゲルは「疎外」の名で呼ぶ。

教養:個人が内面的に充実した存在になって行くだけでは決定的に不十分で、それに伴って、社会における自分の位置が明確になり、社会に生きる意味が了解されるのでなければならない。


最後に著者は、『精神現象学』をより深く理解するために、ヘーゲルの後期思想を背景に踏まえる必要性を示唆しています。







ゼノンのパラドクスに感染した「絶対知」 ★★★★☆
“真理は、秩序に分裂と対立と否定を持ち込み、秩序の解体と再生の絶えざる運動の内に、真の現実のありさまを見る「主体」として捉えるべき”(p.23, p.34)であり、「主体」の例は、人間、神、自然、歴史だとする。また、“自分自身の内から出てきた力によって自分自身を超えて行くものが意識”(p.38)であり、“世界全体に行き渡る否定の力を、個々の具体的な場面で発揮するのが人間の意識”(p.39)だとする。これらの論理的帰結として、否定の力が最も強い人間の意識を「主体」として捉えれば真理に到達できるとヘーゲルは考え、それを「絶対知」と呼んだのであろう。

その「絶対知」に至る意識の成長過程が精神現象なのであり、「絶対知」は“安定と静謐のうちに世界の本質を見ること”(p.212)ではなく、秩序に分裂と対立と否定を持ち込み、秩序の解体と再生の絶えざる運動の内に、真の現実のありさまを見ること”(p.34)である。つまり、「絶対知」は最大で不動の精神(i.e. 実体)ではなく、最大を次々と更新し続ける精神(i.e. 主体)なのである。換言すれば「絶対知」とは、スピノザが神を定義した無限大ではなく、膨張し続ける無限大なのである。従って、意識が「絶対知」に向かって進んでも、蜃気楼のオアシスのように辿り着けないのである。ここで、「絶対知」を亀とし、意識をアキレスとしたパラドクスが組み込まれてしまったと考える。それが分かりにくいのは、「精神」に関する議論が大半を占めているからであろう。

無限の概念を解明したデデキントやカントールは、ヘーゲルの没後に生まれている。従って、無限回の弁証法という論理操作に内在する無限の時間のパラドクス(i.e. ゼノンのパラドクス)を見破ることが出来ないのは当然かも知れない。
それぞれの需要(翻訳能力に同じ) ★★★☆☆
 一連の長谷川批判でもうしわけないが、書くことによって、長谷川さんの業績を確認するためである。
 この本は99年に出ているから、「現象学」を98年に出版した一年後ということになる。「新しいヘーゲル」は本当に新しく何も書かれていなかったが、この書は「現象学」が出た後ということで、長谷川さんもいくらか書くことができたようである。だが、三分の一ぐらいは引用で、しかもつまみ食いの様相を呈し、いわば、現象学のアンソロジーとなっている。
 第一章「現象学のむずかしさ」、第三章「地図のない知の旅」、第五章「思考の奇怪さについて」となっている。これを見るだけでも、ご本人がヘーゲルはわからないと言っているかのようである。
 書物というものはそれぞれの需要によって評価がなされるものである。これは重要なことである。
翻訳能力とは別? ★★★☆☆
画期的的な名訳には敬服。まずは、流れがわかってこそ、その書物は評価できるのであって、長谷川訳以前の「精神現象学」の翻訳は、どうみても正常な日本語ではない。「美学講義」「哲学史講義」「歴史哲学講義」と、従来のヘーゲルの翻訳の観念を崩す見事な翻訳が出たあとに、「精神現象学」の翻訳が1996年に出た。一時は喝采を持って迎えられ、翻訳賞の受賞など、哲学の翻訳とは思えないほどの注目振りだった。が、まもなく、文句が出始めた。「訳し過ぎじゃないか」「scheinenの意味が分かっているのか」「厳密な定義からいくと変だ」。俺に言わせれば全部言い掛かりの嘘っぱちだ。訳し過ぎない「丁度良い訳」とはなんだ、実戦英文解釈教室じゃあるまいし下らんことを言うな、厳密な定義とは何だ、勝手に作るな、そう言えば全部片の付くような下らんものばかり。おまけに、この翻訳を読んで理解できたくせに、まるで世話にならず前から分かっていたような口調で、96年以降にヘーゲルに言及し続ける怪しげな一団も居る。だが、そんな名訳を果たした人の割には、解説は面白くない。本書を読むより、この人の翻訳を読めば誰でもわかります。この人の書いたもので面白いのは「ヘーゲルの歴史意識」だけだと思います。
『精神現象学』を読む前に ★★★★★
『精神現象学』を読みたいなあと思ったのでその前に読んでみたけど、先に読んどいて大正解。直接『精神現象学』にいってたら確実に読むのやめてた。
著者は難解とされる『精神現象学』の邦訳が素晴らしくて、分かり易くなっているということでドイツ政府からなんとか賞を受賞したらしく、思う存分自分が訳した『精神現象学』を引っ張ってきている。その引用された部分を読むだけでも、『精神現象学』がどれほどに理解し難いかよく分かったし、それをわかりやすく解説しようとしているのもよく分かった。基本的に入門書というのは、とりあえず興味を持った人が手にするもので、読んだ後更に興味を持たせるのが目的なんだろうけど、読んだ後『精神現象学』を読むのは後回しにしようと思った(笑)それは『精神現象学』が今読むべきではない本だっていうことが、この本を読んでわかったから。そういうのも入門書の役割として考えて良いんじゃないかと思う。とにかく、『精神現象学』がどんな感じかよくわかったので、良い本なのではないかと思う。

ただ、これがヘーゲルの入門書ではなく難解とされる『精神現象学』の入門書であるために読者にある程度の知識を要求しているのかなんだか知らないけど、多少入門書としてふさわしくないのでは??と思うところがあった。例えば、「否定や対立や分裂がこれほどまでに強調されるのを見ると、わたしたちはいやでも二十世紀ドイツの哲学者テオドール・アドルノの『否定の弁証法』に思いいたらざるをえない。」とある。そんなもん思いいたらへん人の方が多いっちゅうに(笑)
まあ、いい本には変わりないけど。