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アメリカン・サイコ〈上〉 (角川文庫)

価格: ¥620
カテゴリ: 文庫
ブランド: 角川書店
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翻訳が素晴らしい ★★★★★
これ最高。主人公の壊れっぷりを活写している。ジャパニーズ・サイコ、誰か書いてくれないかなあ。
饒舌な失語症 ★★★☆☆
アメリカン・サイコはその題名にも関わらず、連続殺人者パトリック・ベイトマンの心理描写もしなければ、その狂気の精神に触れようともしない。飲んでいるワインがシャルドネで、スーツがアルマーニであることだけが延々と語られる。だがそのポール・スチュアートのネクタイの縁取りはジャンキーの赤ん坊であり、悪臭を放つホームレスだ。つまり、身に着けているブランドをだらだらと描き、高級な頽廃生活を描く中でそっと、えぐい現実が盛り込まれる。それらの縁取りは、一つのひそやかな指し示しなのだ。素材(material)の外側に付着しているえぐい現実たちを指し示しながら、同時に薄暗い素材の内側にも、実は筆者の指は向いている。ベイトマンの荒涼たる心象風景は、心に重い病を持っている者が押し隠すかのように、沈黙されている。だがストーリーテラーでもあるベイトマンの語りは極めて饒舌なのだ。ベイトマンは、何気なく取り出したハンカチがラルフローレンであることから、エレベーターに乗っているときの視線まで、語りつくす。その饒舌な物語によって語られないその暗黒こそが、ベイトマンの病んだ精神なのだ。ベイトマンと同様の症状を見せるのは、村上春樹の『ノルウェイの森』に出てくるナオコだ。彼女は饒舌に語る。だが、語れば語るほど、語られないものが浮き彫りになる。そしてその失語症、心の闇が明らかとなる。
ディテールに宿る刷り込み現象 ★★★★★
洋モノ好きな友人に勧められて、読んだのだった。
映画のほうはお寒い出来であったが、今でも原作は文学史に残る怪作だと思う。
とにかく「細部」なのだ。どこまでも続くディテールなのだ。ただこの場合は、小説の中で「フィールドワークの結果をリポートする」ことを主な目的とする田中康夫とは、違う意味で使われている。
だんだん飽きてくる。脳味噌が泥沼となってくる。あーあ。それでも、それでも読むのをやめられない。
構成としては、あまりにも細部の記述が続く日常生活部分と、その間にはさまったストーリーが動く部分、から成る。
そして、すべてのパートを読み終えた時に、どこからどこまでが実際に起こった部分なのか、と振り返る仕掛けがされている。
主人公の朝の歯磨きシーンなど、どこまで続くのか、何時間かかっているのか、いつ出社するのか、など謎はつきない。確かこれと似たような、筒井康隆が書いた妻のお化粧シーンがあったように思うが。
個人的には小説「アメリカンサイコ」に、国も違えば小説ではない倉阪鬼一郎の「活字狂想曲」を読むときと同じような感覚を抱くのだが、日々の瑣末な事柄の繰り返しによるすりこみ効果、というようなものだろう。映画でもこれがあるものは風化に強い。
倉阪が言うように「人生とは、大した事件も起こらず、ただ、つまらなくたらたらっと続いていくもの」で、「アメリカンサイコ」はその「たらたらっ」の部分の隙間に、とんでもない「大した事件」を入れてその衝撃を増大させるという手法がとられている。ところが、何年も経ってみると、凄惨な事件や主人公の異常性よりも、「たらたらっ」とした部分のほうになつかしさを感じる自分がいる。なかなか味わい深い小説だ。
物質社会は人々から個性を奪う ★★★★★
レイプと残虐な殺人の描写は全体の8分の1ぐらいを占めていて、残りはベイトマンが殺人をしていない時の日常だ。話題のレストランやクラブにでかけたり、お気に入りのテレビ番組「パティ・ウインターズ・ショー」(日本の女性週刊誌のような低俗番組)を観たりということなのだが、どう感じたかということはほぼ皆無で、リストと呼んでいいほどの名詞と固有名詞の羅列だ。服や靴のブランド名、家具や調度品のメーカー名などおびただしい数が登場する。こうしたリストの合間に医者にアドバイスを受けながら書いたのかと思わされるほど、リアルで詳細に入った殺しの様子が語られる。
 この二つの、かけ離れた要素が生み出す効果は圧巻で、読者は息苦しさを感じながらも前に進まざるをえられない。ベイトマンは世界と人の表層の下にあるもの、つまり意味や感情、感傷というものを「感じる」ことができない。しかしそれはベイトマンだけでなく、登場する同僚やガールフレンドたち全員がそうなのだ。連続殺人者でありながら「普通」の生活を送っているベイトマンは一見、特異な人間であるようだが、他の登場人物と同様、個性、特徴というものが欠落している。その証拠に何度も他の人に間違えられる。ベイトマンが「異常」でありながらも他の人物と交換可能ということがこの小説の一番恐ろしいところだ。
 心の廃人と化しているベイトマンが、少しだけ残された理性を保つ手段として残虐な行為を繰り返すのは不思議と説得力がある。ベイトマンは殺人の後、隠蔽しようとはしない。見つかって捕まりたいと心の奥底で望んでいるようにさえうつるが最後まで明るみにでることがない、このカタルシスの不在こそがベイトマンの悲劇なのだ。
  頭からっぽのモデル嬢たちとの食事の時間をなんとかもたせようと骨を折るところや自分で作ってもいないサラダの味をしつこく心配し続けるパーティのホストなど、ドライなユーモアも秀逸。
ブッシュ再選で再びサイコの時代が来る? ★★★★★
~この小説は80年代のレーガン末期~ブッシュ父当選の時期を背景に書かれています。80年代アメリカといえばレーガン不況だろ、と思いこんでいたので、登場人物たちの華やかで空虚なバブル生活がピンと来なかったのですが、レーガンは金持ちには大減税したのでこいつらヤッピーはじゃぶじゃぶ無駄遣いできてた、と(町山智宏さんのサイトで教えてもらいました)。$~~N$
この小説はコミュニケーションのギャップ、というか激しい断絶について書いたものだと思います。言葉を発しても誰にも届かない恐怖。誰かを殺しても誰にも気にされない恐るべき無関心。私たちはハイパー資本主義のそういう状況に傷ついた挙げ句、天災やテロで打ちひしがれた同胞に手を差し伸べ慰め合うことの大切さを再発見した、と思っていました。
しか~~し時代はまたしても変わりつつあるようです。あれほど反対運動を繰り広げたのにブッシュは再選されてしまった。どんなに言葉を尽くして語りかけても、誰も聞いてはくれないことがわかった。恐ろしいことです。アメリカは再び大きく分断された。貧富の差はさらに拡大し、言葉は力を失い、この小説で描かれたような狂気と無力感が人々を襲うことでしょう。いま~~こそ、もう一度読むべき本でだと思います。~