オートマティックな歴史ではなく、プロブレマティックな歴史を志向する
★★★★★
歴史学の趨勢に大きな影響を与えたというアナール学派の創始者の一人、フランスの歴史学者のリュシアン・フェーブルによる、歴史学方法論。
全体で6つの独立した論文を掲載していて、一番年代の古いのは1933年、一番新しいのは1949年のもの、現代史の激動の時代にあって思索を躍動させる著者の密度の高い精神の運動が、生き生きとした筆致で翻訳されている。巻末には原注・訳者あとがき・解説・索引が掲載。
内容については、一章から三章までで従来の体系的で静的な、自動的に歴史が叙述できるかのような歴史研究や歴史哲学に反駁し、歴史家自身が歴史史料を前に問いかけをし、問題提起し、仮説を作って研究を進めていく歴史学の必要性や重要性を主張している。その主張の裏には20世紀に起こった物理学の根本的な変革が与えた方法論的インパクトがあり、また、おそらく第一次世界大戦が当時のヨーロッパの人々に与えた根本的な世界観の転回があったのではないかと思う。事実はたった一つで、事実を観察さえすれば現在も過去もたちどころに理解できるという考え方が崩壊したことが、著者の問題提起の根底にあるのではないかと思った。事実や現実というのが、少なからずそれぞれの人によって解釈された部分を含むことはカルチュラル・スタディーズも示していることだが、案外意識されることのないことだ。そうして進めていく歴史研究は、複数性としての人間の生を浮かび上がらせようという目的を目指すのだという。
四章はシュペングラーやトインビーの歴史著作を擬似歴史学として批判している。そして五章は著者の朋友のマルク・ブロックについての追想、六章はブロックの「歴史のための弁明」のブックレビュー的文章が載っている。「歴史…」を読みたくなる。ナチスに処刑されてキャリアを絶たれたブロックへの哀悼の思いがこもっている。
歴史学の方法論を知るのにも役立つし、この書物自身が歴史書としての面白みのある一冊だと思う。
それ自身歴史的な価値のある一書
★★★★★
アナール派の自称する「生きた歴史」というものが実際どのようなもので
あるかは別として(私には生を装っただけの静かな影絵芝居に思われるが
)、フェーブル氏によるこの書自体は彼の生きた時代そのものを如実に示
している点で第一級の史料である。
★少し読みにくいけれど時間をかけて読む価値はあり★
★★★★☆
歴史家とはどうあるべきか。歴史とはなにか。本書はアナール学派(歴史学が政治・経済史に固執し総合的見地を持っていなかったとの批判から生まれた、歴史を様々な学問分野から検討しようと主張する学派)の創始者の一人でもある著者リュシアン=フェーヴルは、歴史学を他の学問から孤立した存在ではなく、隣接する科学との協力を目指すことに一生を捧げた。歴史は文献や文書を調べてそこから事実を抽出することだけではない。歴史はもっと動きに満ちていて、解釈の仕方も様々だということが実感できる。歴史学を学ぶにあたって是非読んでおきたい一冊である。