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ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語 (ハヤカワ文庫NF)

価格: ¥630
カテゴリ: 文庫
ブランド: 早川書房
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   1999年にニューヨークタイムズマガジンの編集者が、著名な建築と都市計画の研究者であるヴィトルト・リプチンスキに、この千年間で最も優れた、利用価値の高い道具についての短いエッセイを書くことを提案した。この提案をリプチンスキは受け入れ、仕事場にある道具―― 金づち、鋸(のこぎり)、水準器、鉋(かんな) ――の歴史を調べていったのだが、そうしたものの系統をたどってみると、ほとんどははるか大昔に端を発したものなのだった。これはもうダメだと思った彼は、妻に意見を求めた。彼女の答えは刺激的なものだった。「あなたが何かしようとする時には、たいていねじ回しが必要でしょう」と。

   確かにそうだった。ねじ回しは、人類の道具箱の仲間としては比較的新しいものであることをリプチンスキは発見した。それは中世ヨーロッパ時代の発明で、中国の影響を受けていない発明品なのだ。もちろん、他の多くのこと同様、レオナルド・ダ・ヴィンチはごく早い時期にねじ回しのアイデアを思いついており、交換可能なギア付きのいろいろな種類のねじ切り機を設計している。それでもなお、ねじ(および、ねじ回しと旋盤)が一般的に使われるようになるまでには何世代もかかり、マイナスドライバーやソケットなどのねじが登場したのは最近になってからだ。

   ねじの発展を1冊の本にまとめ上げたリプチンスキの探求は、とてもおもしろく、読者が日用品の起源に興味を抱くようになるのは確実だ。(Gregory McNamee, Amazon.com)

「たかがねじ、されどねじ」−ねじとねじ回しの博物誌。 ★★★★★
 本書は、ねじとねじ回しという、ごくありふれているが、われわれの生活になくてはならない小さな機械部品と工具についての博物誌である。

 単行本出版当時の2003年、機械部品の会社で取締役を務めていた私にとって、この本の出版は、よくぞ翻訳していただきましたというものであった。
 業界内では、「たかがねじ、されどねじ」という表現がよくクチにされる。同様に、「たかがばね、されどばね」、ともよくいわれるが、世間一般での評価の低さ、関心の低さとは裏腹に、機械産業内部ではその重要性がきわめて高く認識されていることはいうまでもない。残念なことに、いまだに「ねじ」と「ばね」を一緒くたにしているのが世間一般の大勢ではあるのだが。

 その意味で、本書の日本語版の出版は、きわめて意義の大きなものだった。原書の副題は A Natural History of the Screwdriver and the Screw、直訳すれば『ねじ回しとねじの博物誌』となる。そう、工学分野のテーマを人文科学的に料理したこの本は、なかなか技術専門家には書きにくい、文化史の作品である。著者は大工道具を使って自らの手で家を建てただけあって、道具にもたいへん造詣が深いらしい。

 「たかがねじ、されどねじ」、という表現の意味は、もしねじがこの世の中に存在しなかったと想像してみたらすぐにわかることだ。「ねじ回し」という工具についても同様だ。
 「ねじ山を制するものは世界を制する」という表現が本書にもでてくるが、ねじとねじ山の精密化と標準化(=規格化)は最初から当たり前のものではなかったのだ。もしこの各種の発明と改良がなかったら、工学だけでなく科学の進歩も後れたであろうし、もちろん現代のわれわれも安価で良質な製品に囲まれた快適な生活など望むべくもなかっただろう。
 本書は欧州を中心とした歴史なので触れられていないが、日本では戦後まで十字溝のねじはなかったのだ、という事実を紹介しておけば十分だろうか。

 本書には実に面白いエピソードが満載である。なかでも「(ヨーロッパでは)紳士にとって旋盤を回すことは、婦人にとっての刺繍のようなもので、18世紀の終わりまで趣味として人気を保っていた」(第5章)なんてことは、まったく知らなかったので新鮮な思いをした。
 「天才技師は、天才芸術家ほど世の中から理解されないし、よく知られてもいないが、両者が相似形をなす存在であることは間違いない」(第6章)と著者はいう。しかし、読み終えたあと、本書に登場した天才技師たちの名前を忘れたとしても、ねじとねじ回しにこんなドラマがあったのだと納得してもらえば、著者冥利に尽きるというものだろう。

 文庫版の大きな付加価値は、旋盤工を定年まで長年続けながら執筆活動を行ってきた町工場作家の小関智弘氏が、比較的長めの解説文を書いていることだ。まさに解説者として適任というべき選択である。早川書店の選択眼に敬意を表する次第である。

 面白くて、間違いなく、なるほどと思うに違いない、ねじとねじ回しの博物誌。文庫版になったこの機会に、ぜひ一読を奨めたい。
何が驚いたかって ★★★☆☆
何が驚いたかって、この本のレビューがすでに3つもあったことだ。世の中は広いものだと思う。
こんなものを読んでいる人がいるのである。
が、考えてみれば、こんなものを書いた人がいるのである。
で、訳した人がいるのである。
で、出版した人がいるのである。
その勇気に賛意を贈りたい(いや、マジなんだけど)。
面白かったか、って、そりゃ、こういう本があることが面白いし重要なのだと答えるしかない。
実際、歴史の神は細部に宿るのである。それがねじとねじ回しであって悪いわけがあろうか。
ま、冷静に考えても、ねじがなかったら、文明もこんなに発達してなかったろうし、とか言う
必要もない。
これを読んでいる人とは友達になれそうな気がする(気がするだけだが)。
「おー、あんたもあれを読みましたか!じゃ、これからは街で出会ったら、合図はねじとねじ
回しです」。
「ねじ!」
「ねじ回し!」
精度にこだわる技術者の心意気、の部分が好きです ★★★★☆
 「新しいものは、発明するよりも、実用品として実現するほうが難しい」といったくだりがでてきます。この「実現する」部分を担った何人かの職人の話に感じ入りました。基本的なマイナスねじの出現までの話も興味深いものでしたが、利便性と精度を高めコストを落として産業革命の基礎となる重要な部品として仕上げた過程の物語はわくわくしました。
 また、その過程で、精度が高く手作業で使い場合にはよりすぐれているタイプのものが姿を消し、精度に”アソビ”があるもののほうが結果的に自動機械で使うには便利だったという逸話にも考えさせられました。
 「コストがおさえられて強度の高い固定方法のマーケットとビジネスモデル」などと口先でいうだけでは歴史は動きません。アルキメデスのような秀逸な科学者と、それの仕上げレベルを繰り返し高めていった有名無名の技術者たちが、文化を育てるのですね。

 ただし、他のレビューアの方々の意見と同じく、本としての完成度は少し余地がある気がしました。最終的な編集のすんでいない生(なま)な部分が残っているようです。

読みやすいがちょっとわかりにくい ★★★☆☆
都市学の研究家である著者によるねじに関するエッセイ。

確かに読みやすい本であり、
「この千年で最高の発明は何か?」という問題提起の奇抜さにも興味が沸く。

著者は自分の工具箱から一つ一つ道具を取り出しながら考えていき、
そこで本書のテーマである「ねじとねじ回し」にたどりつく。

惜しいことは、そのテーマの興味深さに反して

①図版の使い方が不十分なため、その部分でなにをいいたいのか
文章を読んだだけではわかりにくい箇所があること。

②ねじとねじ回しの歴史は詳細に書かれているが、
それらの何がどのようにすごいのかという説明が不十分であること。

これらの点で物足りなさを感じた。

個人的に一番興味深く読めたのは第七章「ねじの父」の部分である。

そこでは天文観測に使われたアンティキシラの古代コンピュータや
アルキメデスの水蒸気砲など長い間見落とされていた
古代ギリシャ人の技術レベルの高さ、発明の実用性・独創性の高さなど
についてかかれている。

わたしたちはつい単純化して
実用技術文化のローマ人、思弁哲学文化のギリシャ人というような
かたちを考えてしまいがちだが、

どうもそうではないということに気付かされたことが本書に収穫であった。

おもしろそうなトピック。もっと掘り下げてほしかった ★★★☆☆
 「この千年で最高の発明は何か?」文献にあたったり、博物館へ行ったり。著者がモノの歴史を調べる課程は、楽しめる。

 ねじとねじ回し、この仕組みは力学的に何かすごいものらしい。ねじとねじ回しが、いつ頃、どんな風に使われ始めたのかという歴史も興味深い。でも、肝心のねじのすごさの核心が説明されていない。日曜大工に詳しい著者は、自分では納得しているようだが、素人読者には伝わってこない。もっと詳しく説明してくれたら、おもしろそうな気がするのに。