知らない人の言葉よりも、知っている人の言葉のほうが理解できる。その人の人格や考え方を知っているから言葉の意味をフォローしているのである。言葉の意味はわからんがとにかく凄い自信だ、という格言の通りです。
許氏の前作までをある程度読んでからのほうがしみじみわかる。
小説家と違って作家というものは、実にこの書き方について意識しないといけないねという話。
同じこと書いてると飽きるし(志鳥)、先に行き過ぎてもついていけないし、さてどうしたものか。
さて、そうした認識を持った上で本書を読むと、やはり目に付くのは贔屓である。指揮者によって紙幅の使い方が圧倒的に違う。あくまでも自分の好悪によっている結果だ。自分が感銘を受けたかどうかだ。
それがわかれば、私は何もこの本を読まなくてもよいような!気がする。「最高」というのは結局主観に堕するもので、ならば、「最高のクラシック」は聴く人それぞれあってしかるべきではないかと。
つまり、読む人が注意しなくてはならぬのは、副題に「許光俊にとっての」というのが隠れているということだ。そうしないと、純粋な人は、「これがいいんだ。これ以外のものは聴く価値がないんだ」と思い込んでしまうかもしれないから、一応警鐘を鳴らしておくことにする。